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東京地方裁判所 昭和58年(行ウ)114号 判決

原告 信原孝子

右訴訟代理人弁護士 庄司 宏

同 鈴木淳二

被告 外務大臣 中山太郎

右指定代理人 大沼洋一 外五名

主文

被告が原告に対し昭和五八年二月一七日付けでした一般旅券の発給をしない旨の処分を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

主文と同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  本件拒否処分及び異議申立て

(一) 本件拒否処分の存在

原告は、昭和五七年九月当時、シリア・アラブ共和国(以下単に「シリア」という。)に在留していたものであるが、同年九月一日、在シリア日本大使館を経由して被告に対し、数次往復用一般旅券の発給の申請(以下「本件申請」という。)をしたところ、被告は、昭和五八年二月一七日付けで、本件申請につき一般旅券の発給をしない旨の処分(以下「本件拒否処分」という。)をし、同年三月二日に、「貴殿の従前からのいわゆる日本赤軍との密接なる関係にかんがみ、貴殿は旅券法一三条一項五号にいう著しくかつ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者に該当する。」との処分理由を付記して、本件拒否処分を原告に通知した。

(二) 異議申立ての経緯

原告は、昭和五八年四月二〇日に本件拒否処分につき被告に対し異議申立てをしたところ、被告は、同年六月二〇日付けで右の異議申立てを棄却する旨の決定をし、同月二二日に原告に通知した。

2  本件拒否処分の違法

(一) 旅券法一三条一項五号の違憲性

(1) 海外渡航の自由は、その憲法上の根拠を同法一三条、二二条一項、二項のいずれに求めるかの議論は存するにせよ、憲法上保障された国民の権利であることは疑いがなく、かつ、その権利としての法的性格は、単に経済的自由権というに止まらず、個人の本性に属する基本的自由権としての自然権の一種であると解されるものである。

すなわち、国民は、個人の種々の目的を達するため、広く世界各国の人々と接触して、思想、意見、知識等を交換し、各人の人格の形成、発展を図り、あるいは人間的な結び付き、友好、相互理解を築くために自由に外国を旅行することが必要なのであり、そのための海外渡航の自由は、ことに、国際的な文化、経済、政治のあらゆる分野における交流と相互理解、人間的接触の重要性と必要性とが飛躍的に増大している現代社会においては、精神的自由権として把えられるべきものである。

したがって、公権力によって、海外渡航の自由を制約するに際しては、かかる権利の基本的性格に照らして、慎重かつ最大限の配慮がなされなければならない。

(2) しかるに、旅券法一三条一項五号は、「外務大臣において、著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」について一般旅券の発給をしないことができる、とするものであって、国民の海外渡航の自由を制約する規定であるところ、その拒否基準の内容が極めて漠然とし、不明確であって、行政府(外務大臣)の政治的考慮に基づく恣意的な裁量判断により、右のように憲法上保障された国民の自然権的基本権である海外渡航の自由を制約することを可能とするものであるから、憲法に違反するものというべきである。

(二) 理由付記不備の違法

(1) 旅券法一三条一項五号を根拠に一般旅券の発給を拒否する場合における理由付記は、いかなる事実関係を認定して申請者が同号に該当すると判断したかを具体的に記載することを要するものであり、この場合、申請者の海外渡航に同号の定めるいかなる害悪が発生するのかということと右害悪発生の相当の蓋然性が客観的に存在する旨の判断をした根拠とが拒否の理由中に示される必要があるものである。しかして、旅券法一三条一項五号の規定する一般旅券の発給の拒否基準の内容が極めて漠然とした不明確なものであることは右(一)の(2)のとおりであるが、右(一)の(1)で述べた海外渡航の自由の権利としての性格に鑑み、また、旅券法立法当時の国会における立法担当者である国務大臣及び政府委員の説明に徴すると、同号の「日本国の利益又は公安を害する行為」とは、犯罪行為又は犯罪行為の遂行に向けられた準備行為若しくは犯罪行為と密接不可分な行為のみを意味するものであり、「著しく………行う虞がある」とは、右のような行為を将来するであろうということが顕著に十分な根拠をもって予想されることを、また、「直接に………行う虞がある」とは、認定した事実関係と右のような行為との間に直接の関係があることを指すものと解すべきである。

したがって、右の理由付記の程度は、認定の根拠となる証拠の摘示や推論の過程の摘示までは必要ないとしても、申請者について認定した事実関係及び申請者が行う虞れのある右のような「日本国の利益又は公安を害する行為」の内容並びに右両者間の因果関係が具体的事実として記載されることが要求されるものと解すべきである。

(2) ところで、本件拒否処分の通知に付記された処分理由は右1の(一)のとおりであって、該当法条を摘示した部分を除くと「原告の従前からの日本赤軍との密接な関係にかんがみ」というに過ぎないが、「従前から」というのがいつからであるか、「密接な関係」というのがどのような意味であり、どのような関係において密接であるのかが全く明らかにされておらず、その理由の全体を見ても、被告が原告の本件申請を拒否するに当たって認定した事実関係や、原告が日本国の利益又は公安を害するどのような行為を行うおそれがあるとするのかが一切不明であって、原告の本件申請が拒否された理由を読み取ることができないものである。

したがって、本件拒否処分の理由付記は、旅券法一四条に違反するものである。

(三) 旅券法一三条一項五号非該当

(1) 原告は医師であるが、昭和四六年四月、市民団体パレスチナ難民支援センターを中心に日本アラブ友好協会、アラブ・リーグ(アラブ諸国加盟の政府間機関)等も加わった諸団体の支援により、レバノン共和国(以下単に「レバノン」という。)在住のパレスチナ難民(以下「難民」という場合にはパレスチナ難民を指す。)に対する医療救援のためのボランティア医師としてベイルートに渡航し、以後、パレスチナ解放機構(パレスチナ人の代表機関として日本国を含め国際的に承認された準国家機関。以下「PLO」という。)の正式機関であるパレスチナ赤三日月社(PROS。世界保健機構(WHO)にも加盟する概ね日本国における日本赤十字社に相当する機関で、月赤十字社ともいう。以下単に「赤三日月社」という。)に所属する医師として、レバノン各地の難民キャンプ内の赤三日月社の医療機関において、医療活動を中心に、衛生活動及び医療教育活動に専心してきたものであり、さらに、昭和五七年のイスラエルのレバノン侵略により、赤三日月社がPLOの諸機関と共にシリアに撤退した際にはこれと同行してシリアに移り、その後はダマスカスの難民キャンプ内の赤三日月社の医療機関において同様の活動に従事して、昭和六二年一一月に帰国したものであって、この十数年間の原告の献身的な医療活動は、諸外国から高い評価を受け、現地において敬愛の念を集めているとともに、日本人に対する信頼感を高める上に少なからぬ役割を演じてきたものである。

(2) しかして、原告は、右のように、PLOの正式機関である赤三日月社の医療機関で働き、医療活動を通じてパレスチナ人を支援する立場にあって、パレスチナ人から生地パレスチナを奪った上これを圧殺しようとするイスラエル政府の政策を憎み、これに対し医師としての立場からパレスチナ人と共に闘おうとする決意を有し、また、それ故に日本政府のイスラエル寄りの政策に対して批判的であることは、これを隠すものではないが、日本赤軍なる組織との間には何らの関係をも有するものではなく、これとの間に密接な関係を有するとか、そのテロ活動その他の非合法武力活動を援助助長するとかいった事実は全く存在しない。

(3) 以上のとおり、本件拒否処分は事実を誤認してされたものであって、旅券法一三条一項五号に違反する違法がある。

3  よって、原告は、本件拒否処分を取り消すことを求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1は認める。

2(一)  同2の(一)のうち、海外渡航の自由が憲法二二条の保障する国民の権利であることは認め、その余は争う。

(二)  同(二)は争う。なお、旅券法立法当時の国会における国務大臣及び政府委員の説明は、同法一三条一項五号の「日本国の利益又は公安を害する行為」を犯罪構成要件に該当する場合のみに限るとする趣旨ではないし、同号の解釈は、旅券法という行政法規独自の見地からされるべきものであって、犯罪構成要件にとらわれる理由はない。

(三)(1) 同(三)の(1)のうち、原告が医師であること、昭和四六年四月にパレスチナ難民支援センター等の支援によりボランティア医師としてベイルートに渡航してレバノン各地の医療機関において医療活動に従事したこと、昭和五七年にPLOがレバノンから撤退した際にこれと同行してシリアに移住し、ダマスカスの医療機関において医療活動に従事したこと、昭和六二年一一月に帰国したことは認め、その余は不知。

(2) 同(2)のうち、原告が日本赤軍との間に何らの関係も有さず、その非合法活動を援助助長するといった事実が存在しないことは否認し、その余は不知。

(3) 同(3)は争う。

三  被告の主張

1  本件拒否処分についての被告の権限

請求の原因1の(一)のとおり、本件拒否処分は、当時シリアに在留していた原告が、在シリア日本大使館を経由して被告に対してした一般旅券発給申請を受けて、被告が行ったものであるが、以下のとおり、被告は、本件拒否処分を行う権限を有するものである。

(一) 旅券法三条一項によれば、国外において一般旅券の発給を受けようとする者は、もよりの領事館(領事館が設置されていない場合には大使館又は公使館。以下同じ。)に出頭の上、領事官(領事館の長をいう。以下同じ。)に所定の書類を提出して、一般旅券の発給を申請しなければならないとされ、また、同法五条一項及び六条一項によれば、国外においては、領事官が一般旅券の発行及び交付をするものとされている。これらの規定は、一般旅券の発給申請並びに発行及び交付に関する事務を所掌する機関を定めたものであり、旅券法は、これらの事務手続については、申請者の現在するところで処理することとして、迅速かつ便宜に行われるよう配慮しているものである。

他方、旅券法一三条一項によれば、外務大臣又は領事官は、一般旅券の発給を受けようとする者が同項各号の一に該当する場合には一般旅券の発給をしないことができるとされ、また、同法一四条によれば、外務大臣又は領事官は、同法一三条に基づき一般旅券の発給をしないと決定したときは、すみやかに理由を付した書面をもってその旨を通知しなければならないとされていて、これらの場合には、当該一般旅券発給の申請者が国内にあるか国外にあるかを区別していない。これらの規定は、一般旅券の発給の許否の決定及びこれに関連する手続は、国民の基本的人権の制約に関する事項を含むとともに旅券行政上最も重要な手続であるから、右判断をするにふさわしい専門的知識、資料あるいは権限を有する者が行うのが最も適当であるという観点から、一般旅券の発給の許否の判断及びその発給拒否の権限を、発給申請並びに発行及び交付の事務手続とは異なって、当該一般旅券発給の申請者が国内にあるか国外にあるかを区別することなく、外務大臣又は領事官に付与したものである。

(二) もっとも、旅券法一三条一項五号に該当することを理由として一般旅券の発給を拒否する権限については、外務大臣の専門的裁量判断に委ねられているのであって、領事官は同号該当性を判断する権限を有しない。すなわち、外務大臣は、同号に基づいて旅券の発給を拒否しようとするときは、あらかじめ法務大臣と協議をした上で行うこととされており(同条二項)、この判断過程において、領事官が関与する余地はないのであるから、同法一三条一項五号を理由に一般旅券の発給を拒否する権限は外務大臣の専権に属するものであり、その限りにおいて領事官の権限が排除されているというべきである。このことは、当該一般旅券発給の申請者が国内にあると国外にあるとを問わないのである。

(三) 旅券の発給の許否を決定するに当たっては、後記3の(三)の(1)のとおり、国内の政治、経済、社会等の諸事情、外交関係等の諸般の事情を斟酌し、時宜に応じた的確な判断をすることが要請されており、このような判断は、事柄の性質上、旅券行政の責任を負う外務大臣が行うのが最も適当である。一般旅券の発給に関する事務の権限は、本来外務大臣の固有の権限と解すべきであるが、右権限のうち、国外における一般旅券の発給申請並びに発行及び交付という事実行為に属する事務については、旅券法の定めるところによって領事官に委任されており、また、同法一三条一項一号ないし四号の二の拒否事由は具体的・個別的であって、その該当性の判断に専門的裁量を要するものでないから、旅券事務の迅速、便宜を考慮して、右事由を理由とする発給の許否を決定する権限を、外務大臣と並んで領事官に対しても付与したものである。もっとも、事務手続上は、領事官が右事由を理由として発給拒否処分をする場合においても、外務大臣の伺いを経た上でこれを行うものとされている。

(四) 領事官は、外務公務員法上、外務職員に該当するものであるから(同法二条一項七号、五号)、その任免権限は外務大臣にあり、その職責遂行についても外務大臣の指揮監督を受けるものである(国家公務員法五五条一項)。また、大使館の長である特命全権大使は、外務大臣の命を受けて、大使館の事務を統括し(外務省設置法一〇条三項参照)、大使館又は公使館が設置されている地に領事館が設置されていない場合には、特命全権大使又は特命全権公使は、領事事務について外務大臣の命を受けるものと解されている(同法一一条三項)。したがって、旅券法一三条一項一号ないし四号の二のように旅券発給拒否の決定について領事官が外務大臣とともに職務を行う権限を有する場合においても、領事官が外務大臣の判断に優越する独自の権限を付与されているものと解することは行政組織上できない。そして、同法一三条一項五号の該当性については、法律上専ら外務大臣が行うものとされた事項であり、外務大臣の職責において行われるのであって、領事官の権限は排斥されることとなるのである。

(五) 以上のとおり、被告は、本件拒否処分を行う権限を有するものである。

2  理由付記の適法性

被告が本件拒否処分の通知に付記した理由は請求の原因1の(一)のとおりである。

しかして、日本赤軍は、後記3の(一)の(2)のとおり、これまで海外で度重なる破壊的暴力活動を敢行してきた極左暴力集団であって、今後も同様の活動を行う危険性が極めて高く、このことは、新聞、雑誌、テレビ等の報道によって広く知られた公知の事実である。そして、このように公知の事実である日本赤軍のこれまでの破壊活動に鑑みて、日本国の利益又は公安を害するおそれのあるような日本赤軍との「密接な関係」がある者とは、その構成員ではないが、単なる共感者に止まらず、日本赤軍に対して有形無形の支援活動をするなどしてその破壊活動を援助助長するような関係にある者を意味することは明らかであり、したがって、本件拒否処分に付記された理由を全体としてみると、一般旅券発給の申請者である原告が右のような者であることを拒否の理由としていることが明白であるから、一般旅券発給拒否の原因事実関係の記載として欠けるところはないというべきである。

そうすると、本件拒否処分に理由付記不備の違法があるとする原告の主張は失当である。

3  旅券法一三条一項五号該当性

(一) 日本赤軍の組織実態及びその破壊活動等

(1) 日本赤軍の組織実態

日本赤軍は、日本の極左団体の一である共産主義者同盟赤軍派を母体として、昭和四六年二月にアラブに渡った同派中央委員重信房子(以下「重信」という。)らが同派から分派して組織したグループであって、当初はアラブ赤軍とも称し、国際・国内遊撃戦を中心にあらゆる人民の指導勢力の結集を図り、世界革命へ向けての根拠地たるべき日本人民共和国を建設しようとの独善的な闘争理論を掲げ、後記(2)のとおり破壊活動等を展開し、かつ、後記(3)のとおり今後も同様の破壊活動を展開しようとするものである。

日本赤軍は、重信をキャップとする約二〇人の日本人グループで構成され、その組織としては、最高指導機関である政治委員会の下に調査、兵站等を担当する組織委員会及び軍事の実行を担当する軍事委員会が置かれており、軍事委員会に所属する実行担当者(コマンド)によって、後記(2)のテロ、ゲリラ事件が引き起こされている。

日本赤軍の活動拠点はアラブ諸国であるが、日本国内にも海外から送還された日本赤軍関係者を含め一〇〇名を下らない支援グループが存在するとみられている。

(2) 日本赤軍による破壊活動等

日本赤軍が過去において行った破壊活動等は次のとおりである。

ア テルアビブ・ロッド空港事件

日本赤軍コマンドである奥平剛士、安田安之及び岡本公三は、昭和四七年五月三〇日、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港の待合室で群衆約三〇〇人に向けて自動小銃を乱射し、手投げ弾を爆発させて、九八人を殺傷するという無差別殺人事件を敢行し、奥平剛士、安田安之はその場で自爆したが、岡本公三はイスラエル当局に逮捕された後、終身刑の判決を受けて服役していた。

イ 日航機ハイジャック事件

日本赤軍コマンドである丸岡修は、アラブゲリラ四名とともに、昭和四八年七月二〇日、日本航空の旅客機(乗員二二名、乗客一二三名)をアムステルダム上空で乗っ取り、アラブ首長国連邦のドバイ空港を経て、同月二五日にリビアのベンガジ空港に着陸させ、乗員乗客を解放した後、同機を爆破した。丸岡修ら犯人はリビア軍に逮捕されたが、まもなく釈放され、日本赤軍に合流した。

ウ シンガポール・クウェート事件

日本赤軍コマンドである和光晴生ら二名は、アラブゲリラ二名とともに、昭和四九年一月三一日、シンガポールのシェル石油製油所を襲撃爆破し、フェリーボートを奪って乗組員を人質として海上に逃れた。一方、その支援として、同年二月六日、アラブゲリラ五名が在クウェート日本大使館を占拠し、大使ら一六人の人質と交換にシェル石油製油所襲撃ゲリラグループを日本航空特別機でクウェート空港まで移送させ、合流した上、同月八日、同機を南イエメンのアデン空港に着陸させ、右ゲリラ九名は、南イエメン政府の管理下に入った。

エ 翻訳作戦

日本赤軍は、昭和四九年二月ころから同年六月ころまで、重信らが中心となり、西ドイツのデュッセルドルフの日本商社の支店長クラスの人物を人質とし身代金を強奪することを企て、行者芳政(以下「行者」という。)らにおいて調査活動を継続していたが、同年七月二六日に後記オのとおり山田義昭がフランス当局に逮捕されるに及び中止した。

オ パリ事件及びハーグ事件

日本赤軍構成員山田義昭は、昭和四九年七月二六日にフランスのオルリー空港において、同国に入国するに際し、古谷優名義の偽造旅券を同空港の税関職員に提示したため逮捕された。

日本赤軍コマンドである和光晴生、西川純(以下「西川」という。)及び奥平純三は、昭和四九年九月一三日、オランダのハーグのフランス大使館を襲撃占拠し、大使ら一一名の人質と交換にフランス当局から三〇万ドルを強奪した上、同月一七日、フランス航空機でスキポール・アムステルダム空港を離陸し、同月一八日にシリアのダマスカス空港に着陸し、シリア政府の管理下に入ったが、同年末までには日本赤軍に合流した。

カ ストックホルム事件

日本赤軍構成員西川、日高敏彦及び戸平和夫は、昭和五〇年三月五日、スウェーデンのストックホルム市内で、レバノン大使館の出入り状況について調査中、警察官に職務質問されて偽造旅券を提示し、西川及び戸平和夫がスウェーデン当局に逮捕された。

キ クアラルンプール事件

日本赤軍コマンドである日高敏彦、奥平純三ら五名は、昭和五〇年八月四日、マレーシアのクアラルンプールのアメリカ大使館及びスウェーデン大使館を襲撃して、アメリカ領事ら五三人を人質にとって両大使館を占拠し、人質と交換に日本で拘禁中の西川、戸平和夫、佐々木規夫、坂東国男及び松田久を奪還した上、同月七日、クアラルンプール空港を日本航空特別機で離陸し、同月八日にリビアのトリポリ空港に着陸してリビア政府の管理下に入ったが、まもなく日本赤軍に合流した。

ク ダッカ空港事件

日本赤軍コマンドである西川、丸岡修、坂東国男、佐々木規夫ら五名は、昭和五二年九月二八日、日本航空の旅客機(乗員、乗客合計一五六名)がインドのボンベイ空港を離陸した直後に、これを乗っ取り、バングラディッシュのダッカ空港に着陸させ、人質と交換に日本で拘禁中の奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、仁平映及び泉水博を奪還するとともに、現金六〇〇万ドルを奪った上、同年一〇月三日、ダッカ空港を離陸し、ダマスカスを経てアルジェリアのダル・エル・ベイダ空港に着陸し、同月四日、人質を解放して、アルジェリア政府の管理下に入った。

ケ ジャカルタ日本大使館等襲撃事件

昭和六一年五月一四日、インドネシアのジャカルタ市内において、日本大使館及びアメリカ大使館に迫撃弾が撃ち込まれ、さらにカナダ大使館が入居しているビルの前に停めてあった同大使館の公用車に仕掛けられていた爆発物が爆発する事件が発生したが、この事件に日本赤軍構成員である城崎が関与していたことが判明した。

コ ローマ米大使館等襲撃事件

昭和六二年六月九日、イタリアのローマ市内においてアメリカ大使館及びイギリス大使館にロケット弾が撃ち込まれ、アメリカ大使館近くに駐車中の自動車が爆破される事件が発生したが、イタリア警察は、この事件の犯人を日本赤軍の構成員である奥平純三及び城崎勉と断定した。

サ 菊村優の爆発物所持事件

昭和六三年四月一日、アメリカのニュージャージー州において、菊村優が爆発物を所持していて、同国の警察に逮捕されたが、同国の連邦検事局は、この事件で、菊村優を日本赤軍構成員であるとする捜査文書をニュージャージー州連邦地方裁判所に提出した。

シ ナポリ米軍クラブ前車両爆破事件

昭和六三年四月一四日、イタリアのナポリ市内において、米軍クラブ前に駐車中の自動車が爆破され、米軍人ら五人が死亡する事件が発生したが、イタリアの警察は、日本赤軍構成員重信及び奥平純三をこの事件の犯人と断定した。

(3) 日本赤軍による破壊活動等再発の危険性

日本赤軍が昭和五二年以降昭和六三年までに、後記人民新聞、英文機関誌「ソリダリティ」、パンフレット等に発表した各種声明文等において、武装闘争の正当性及び必要性を訴え、今後もこれを維持継続していく趣旨の宣言をしていること、日本赤軍の中心人物である重信が昭和五六年以降昭和六〇年までに新聞記者等と会見し又は雑誌に手記を発表して、同趣旨の発言をしていること、並びに、昭和六〇年五月二四日付け読売新聞夕刊が、日本赤軍が最近においても中東を拠点として活動を続けており、PLO内急進派又は後記パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と密接な関係を保つとともに、その組織力、発言力も相当に強く、岡本公三の奪還にも関与している旨報道していることなどに照らすと、日本赤軍は、本件拒否処分当時である昭和五八年においてはもとより、今後も従前のような破壊活動を繰り返す危険性を十分に有している。

(4) 日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線(PFLP)との関係

ア パレスチナ解放人民戦線(以下「PFLP」という。)は、ファタハ等多くの派閥によって構成されているPLO内の一組織であるところ、その路線は、PLO多数派が穏健中道寄りであるのに対して、マルクス・レーニン主義を標榜し、各種闘争において過激な方向を指向する最左翼急進主義派に属し、その活動もパレスチナゲリラの中にあっては最も過激であって、これによって敢行されたハイジャック闘争等の非合法的活動も数多いところである。

PLOは、政治局、情報局、海外局等一三部門から構成されるところ、PFLPは、その中で、アラファトPLO議長の出身母体であるファタハが委員の九〇パーセントを占める情報局に少数の代表を送っているに過ぎない少数派であるが、過去には、昭和四八年から昭和五六年までの間、政治的主張の対立から、八年以上PLOに代表を派遣しないこともあり、また、昭和五七年六月以降のイスラエルのベイルート侵攻に対し、PLO内部が国外退去か徹底抗戦かをめぐって激しく対立した際、PFLPは、アラファトPLO議長の国外退去提案に対し最後まで反対して、PLOとの訣別も予想される事態となるようなこともあった。

イ 日本赤軍は、その成立の当初からPFLPと極めて密接な関係がある。即ち、重信がレバノンに渡航してすぐにPFLPに連絡し、その庇護の下に活動を開始したことを始めとして、テルアビブ・ロッド空港事件がPFLPの指導のもとに一部の日本赤軍構成員が敢行したものであることは両組織自身が認めているところであるし、シンガポール・クウェート事件、岡本公三奪還闘争等においても両組織は共闘関係にあり、その他日常的な戦闘活動においても日本赤軍はPFLPと行動を共にし、また、重信も、雑誌記者等との会見において、日本赤軍がPFLPと親密な関係にあることを認めているところである。

なお、後記(二)の(3)のアのとおり、「日本PFLP医療委員会」、「PFLP日本人医療隊」なる組織の存在が認められるところであるが、これも、日本赤軍とPFLPとの右のような関係に基づくものと認められる。

(二) 原告と日本赤軍との関係

次の各事実を総合すると、原告が日本赤軍と密接な関係を有することは明らかである。

(1) 原告の出入国及び中東地域における移動状況

ア 原告は、昭和四六年四月、パレスチナ難民支援センター等の後援により、ボランティア医師として、看護婦の中野マリ子(以下「中野」という。)とともに日本を出国し、同月末からベイルート市内の赤三日月社のアルコッツ(ジェルサレム)病院において医療活動をする傍ら、同市内のシャティーラキャンプ内の診療所でも稼働をした。

イ 原告は、昭和四六年冬ころ、政治的立場の相違により中野と喧嘩別れの状態となったため、同人とは別行動をとることとし、レバノン南部のスールにあるラシャディーエキャンプ内のPFLP直轄のラシャディーエ診療所に移り、昭和四九年五月まで同診療所で医療活動に従事した。

ウ この間、原告は、昭和四七年三月から同年五月までは帰国しており、また、昭和四八年五月から同年七月まではベイルートのシャティーラキャンプに診療の応援に赴いた。

エ 原告は、昭和四九年五月からは、スールにあるブルジュシュマーリキャンプ内の赤三日月社の病院に籍をおき、PFLPのラシャディーエ診療所も手伝っていたが、昭和五一年二月から同年一二月まではベイルート市内のアラブ大学救急病院その他の救急病院で稼働し、昭和五二年に再度スールに戻り、昭和五七年六月までアルバス病院、レバノン民族戦線ナバティエ診療所等で稼働した。

オ 原告は、昭和五七年六月、たまたまベイルートに滞在中に、イスラエルが南部からレバノン侵略を開始したためスールに戻ることができなくなり、そのままベイルートに止まって、トライアンフ病院等において診療活動に従事し、同年八月、在レバノン日本大使館係員に一般旅券の発給を求める希望を伝えたが、同年八月末、ベイルートから撤退したPLOと行動を共にしてシリアに移住し、ダマスカス市内のヤルムークキャンプ診療所、デルヤシン診療所等に勤務したが、昭和六二年一一月に帰国した。

(2) 原告と日本赤軍との直接の関係を示す事実

ア 重信との交際関係

原告は、昭和四六年にベイルートに渡航してから、現地において、日本赤軍の中心人物である重信と交際し、テルアビブ・ロッド空港事件が発生した昭和四七年五月三〇日以降も、同人との接触を保っていたばかりでなく、重信が日本赤軍の最高幹部としてその破壊活動を指導していることを知りながら、後記イ及びウのとおり、日本赤軍のアジトに出入りし、また、積極的に重信と他の者との連絡役等を務めていた。

イ 行者及び西川の供述

a 行者は、日本赤軍構成員として翻訳作戦に参加し、その後アメリカに密入国しようとして、昭和五〇年九月一日に偽造有印私文書行使の被疑事実により日本の警察当局に逮捕された者であるが、逮捕後の勾留期間中である同月八日及び一五日の司法警察員の取調べに対し、同人がベイルートに滞在していた昭和四九年八月末から同年一二月末までの状況を供述するに際して、当時、ベイルートに残っていた人物として、「重信房子、丸岡修、日高敏彦、シルビー、足立正生、ドクター(日本人女性三〇才位)、痩身の二〇才くらいの日本人女性、戸平」を挙げた上、司法警察員が示した一三〇葉の写真の中から丸岡修等の日本赤軍構成員の写真とともに原告の写真を選別して、これを「ドクター、三〇才位女」と特定し、さらに、昭和四九年九月ころに日本赤軍がハーグ事件の成否に感心を寄せ、ベイルートに残留していた重信、丸岡修、足立正生(以下「足立」という。)日高敏彦及び行者らが当時の日本赤軍のアジトであった「なみだ橋」に集まり、ラジオ、新聞の報道に感心を払っていた状況を供述するに当たり、ドクター即ち原告が時々右「なみだ橋」に来て、日本赤軍構成員とともに、ハーグ事件の成り行きを見守っていたことを述べている。

なお、行者に対しては、取調べの時点で供述拒否権が適法に告知されており、また、同人自身アメリカに入国しようとした意図等については否認ないし供述を拒否していて、供述拒否権があることは十分に知悉しており、その上で、自己の意思で任意に供述をし、あるいは供述を拒否していたのであるから、取調官が行者を誘導し得る余地はなく、行者が虚偽の供述をすることも考えられないし、また、行者に対する取調べは、食事時間や休憩時間も設けられていて、時には行者から冗談が出るようなこともあるような状況であったので、行者の供述が任意に出たものであることはもとより、その内容も真実と認めることができる。このことは、行者の供述の内容が極めて詳細かつ具体的であること、行者は、逮捕当初選任した救援連絡センター所属の弁護士を勾留中に解任し、人民救援会からの差入れも辞退するなど、いわゆる「落ちた被疑者」となっていたことからも明らかである。

b 日本赤軍構成員の西川は、昭和五〇年五月二日の司法警察員の取調べにおいて、五一葉の写真の中から、日本赤軍関係者を選別し、それらのものの活動状況について説明をしているが、その際、和光晴生、奥平純三、山田義昭、丸岡修、日高敏彦、戸平和夫、重信、吉村和江、北川明、島田恭一、行者、山本万里子、足立の写真とともに原告の写真を抽出し、名前は知らないが、ベイルートのアジトで見かけたことがある旨を供述している。

西川が原告をアジトで見かけた時期については、西川の供述からは特定することができないが、西川が昭和四八年五月に日本を出国して日本赤軍に加わり、昭和四九年九月のハーグ事件に参加してシリアで投降した後、同年末ころまでに釈放され、さらに昭和五〇年三月にストックホルム事件で逮捕されていること、西川は行者とともに翻訳作戦に参加し、同作戦の総括のためベイルートで行者と会っていること等に徴すると、昭和四九年末ころと推認することができる。

なお、西川は、司法警察員の取調べに対し、当初は黙秘を続けていたが、後に供述を始めたものであり、「アジト」という用語も同人から用いたもので、また、原告の写真を選別した際の態度についても、見たのはこの人かも知れないという程度のものではなく、事実原告を見たとして選別したものであって、その供述が任意にされたものであることはもちろん、信用性も極めて高いものである。

C なお、日本赤軍の構成員は、逮捕されても各種活動、構成員氏名とその役割、アジトの所在等について、自供することがなかったところ、昭和五〇年三月にストックホルム事件で西川及び戸平和夫が逮捕され、また、同年九月に行者が逮捕されて、それぞれ取調べに対し日本赤軍に関する事項を詳細に供述するに及んで、日本赤軍のアジトの所在、構成員の状況、活動内容等が公安当局に明らかとなって、日本赤軍は大きな打撃を受けたが、これに関連して、日本赤軍ないし重信は、事あるごとに、自己批判の対象としてストックホルム事件の「敗北」を説いて構成員に反省を求めており、このことは、西川、行者及び戸平和夫が取調べにおいて日本赤軍に関する事実をいかに多く供述したかを物語るもので、このことからしても、行者及び西川の供述が真実に合致し、信用できるものであることは明白である。

d 以上のとおり、原告は、日本赤軍のアジトに出入りし、重信を初めとするその構成員と会っていたものである。

ウ 松田政男の手紙文

司法警察員が、昭和四九年二月五日に、足立(同人は、同年六月に出国して日本赤軍に合流している。)を中心として結成され日本赤軍の国内支援組織と認められる世界革命情報センター(以下「IRF・IC」又は「IRF」という。)の事務所を捜索した際に押収した手紙文(乙第一五三号証)は、その内容及び足立の司法警察員に対する供述に照らして足立と親交のある映画評論家の松田政男(以下「松田」という。)がベイルートから足立に宛てて出したものと認められるところ、その内容中に、重信との接触を求めてベイルートを訪れた松田に「ドクター」が会って、重信の見解を伝えたとする部分が存在する。

松田はベイルートにおいて、北沢正雄、佐々木守及び伊藤孝(映画監督若松孝二、以下「若松」という。)と合流の上、重信にインタヴューしているのであるが、右手紙文は、その内容の右インタヴューに関する部分の一部が重信の著書の佐々木守の後書き及び雑誌に掲載された重信と北沢正雄との対談記事の記述と一致していて信用性が高いと認められ、かつ、右手紙文が作成された時期は、松田の出入国の日、手紙文中の佐々木守、若松、北沢正雄の出入国の日、松田らによる重信へのインタヴューの日との前後関係から昭和四八年一〇月ころと特定されるものであるところ、これは重信が行方をくらました昭和四七年四月の後のことである。

ところで、日本赤軍関係者の間で原告を「ドクター」と呼ぶことがあったことは、前記イのaの行者の供述によって明らかであり、また、当時、レバノンに滞在していた日本人で「ドクター」と呼ばれ得る者は原告以外にあり得ず、したがって、右手紙文の「ドクター」は原告を指すものであるところ、右の事実によれば、原告は、スールに移住した後も、重信との交際を継続していたばかりか、日本赤軍最高幹部として所在を秘匿する必要のあった重信と同人に対する訪問者との連絡役を務めていたと認められるのである(なお、スールとベイルートとの距離は約七〇キロメートルで、交通機関が円滑に運行している限りその間を移動することはさほど困難でなく、前記(1)のとおり、原告はしばしば往復しているところである。)。

エ 足立のノート

司法警察員が、昭和四九年二月四日に、足立の着衣、所持品について捜索差押えをした際に押収した足立のノート(乙第一五六号証。なお、同ノートの表紙には、上部に「M・ADACHI」と、中央部に「I・R・F」と、下部に「ATAH」と記載されている。)中に、「日本人戦士奪還闘争」との表題の下に、H・J闘争に関し、IRFらの団体がリビア大使館に又は電文によりリビア政府に陳情をし、かつ、リビア政府に対する直接陳情のため、アラブ赤軍から「ドクトル」が、東京から「アタ」がトリポリに派遣されるとの計画について記載がある。

右のH・J闘争とはハイジャック闘争の意味であり、かつ、右ノートの押収年月日及び陳情先がリビア政府とされている点に照らして、日本赤軍コマンド丸岡修らが昭和四八年七月二〇日にアムステルダム上空で日本航空機をハイジャックし、リビアのベンガジ空港でこれを爆破して、リビア軍に逮捕された日航機ハイジャック事件を指すものと解されるところ、右計画においてトリポリに派遣されることとされた者のうち、「アタ」は足立自身のことであり、また、「ドクトル」が、右ウのとおり、日本赤軍内部において「ドクトル(ドクター)」が原告を指称するものであったこと及び他の日本赤軍関係者にドクトルと呼ばれる者が存在しなかったことから、原告を意味することは明らかである(なお、ドクトルが男性に対する呼称であり女性形はドクトーラとなるべきであるにしても、右ノートの記載は必ずしも現地語に堪能でないと思われる足立によるものである上、原告自身が現地において「ドクトル・スアード」と呼ばれていたのであるから、ドクトルを原告を指称するものと解する妨げとはならない。)。

右の事実は、原告が、日本赤軍内部において、足立と並んでハイジャック犯人の奪還闘争の一環としての対政府交渉を委ねられる程の地位にあったことを示すものである。

オ 換字表の記載

司法警察員は、右エのとおり、昭和四九年二月四日に、足立の着衣、所持品について捜索差押えをした際に、「1 マリアン」から始まり「191 アドレス」で終わる人名、地名等を数次に対応させた記載があり、かつその二番目に「2ソアド」との記載のあるメモ三枚(以下「第一の換字表」という。)及び同じく「1和光」から始まり「188 ビラ」で終わる人名、地名等を数字に対応させた記載があり、かつその二番目に「2 信原」との記載があるほか、0から9までの数字を平仮名に、また1から12までの数字を他の数字に対応させる記載のあるメモ二枚(以下「第二の換字表」という。)を押収し、また、右ウのとおり、昭和四九年二月五日に、IRF・ICの事務所を捜索した際に、0から9までの数字を平仮名に、また一月から一二月までを他の月に対応させる記載があるほか、「1和光」から始まり「253 開発」で終わる人名、地名等を数字に対応させた記載があり、かつ、その九番目に「9 信原」との記載のある切り裂かれたメモ(以下「第三の換字表」という。)を押収した。

右各換字表は、第一、第二の換字表についての足立の供述、第一の換字表の三枚目に重信の筆跡によるメモが貼付されていたこと、足立が重信の旧友であり、当時から日本赤軍のスポークスマン的存在でその様々な声明を発表している立場であって、日本赤軍幹部として重信に次ぐ地位にあると認められることなどから、日本赤軍との暗号文による通信の解読に現実に使用されていたものであることが明らかであるところ、それに記載された用語は、日本赤軍構成員の本名又は暗号名、地名、政党名、日本赤軍と何らかの接触を持った者の氏名、活動行為の必需品、作戦の成否等に係るものばかりで、乱数表の要素や目くらましのための不要な語の混入があるとは認められないから、右各換字表に記載された氏名又は暗号名のうち、日本赤軍と接触したジャーナリスト、著名人、世界の政治家等日本赤軍構成員でないことが明らかであるものを除いた者は、日本赤軍構成員又はその関係者である公算が極めて高いものというべきである。しかして、第二の換字表及び第三の換字表には原告の名前が、また、第一の換字表には原告の現地名であるソアドが、それぞれ日本赤軍構成員の本名又は暗号名とともに、しかも比較的上位に記載されているのであるから、原告が日本赤軍と密接な関係を有していたことが推認できるものである。

(3) 原告とPFLPとの関係

日本赤軍とPFLPとが極めて緊密な関係の下に活動してきたことは、前記(一)の(4)のとおりであり、また、原告が昭和四六年冬ころに自らの意思で中野と訣別してPFLP直轄の診療所に移動したことは、前記(1)のイのとおりであるところ、互いにPFLPと緊密な関係を持つ原告と日本赤軍とが様々な理由により接近ないし接触する機会がもたれることはむしろ当然であり、以下の事実からもその接触が推測されるものである。

ア 原告の発表した声明文

IRF・ICが他の組織と共同編集して昭和五〇年六月三〇日に出版した「隊伍を整えよ-日本赤軍宣言」と題する出版物には、「PFLP日本人医療隊」の声明文が三通、「日本PFLP医療委員会」の声明文が一通掲載されているところ、右各声明文の内容のうち、声明者の所在を示す部分を日付とともに示すと、

〈1〉 「ここ、南レバノンで人民の医療にたずさわってはや一年が過ぎました。一九七二年八月一〇日」

〈2〉 「我々は、一昨年より………パレスチナ難民キャンプ及びレバノン南部国境での医療活動を行ってきました。もちろんPFLP医療委員会の要請に応じ、最前線での救護活動と難民キャンプでの診療活動を中心に一年間を闘ってきました。そして、今は、四月中旬以来、ベイルートの中心にある最大のキャンプシャティーラで闘っています。七三・五・二〇」

〈3〉 「私たち日本人医療隊は、その最前線で一歩も退かず、………一九七三(日付不明)」

〈4〉 「イスラエルは、南部国境のレバノン村人達の誘拐等、国境侵犯をいつもより強化している。一九七五年五月三〇日」

となり、これを前記(1)の原告の移動状況と対比すると両者が一致することが判明する。さらに、当時レバノンに居住しつつ医療に従事していた日本人女性は原告と中野のみであるところ、中野がベイルート近辺に止まっており、原告がスールのPFLP直轄の診療所に赴き、主としてレバノン南部の病院で稼働していたことも前記(1)のとおりである。そうすると、右の四通の声明文はPFLPと密接な関係を有する日本人の医療関係者が作成したものであり、かかる者としては原告以外に考えられないから、いずれも原告の作成に係るものと推認することができる。

しかして、右各声明文は、日本赤軍の闘争を讃え、「同志」との特殊な呼掛けをし、かつ、日本赤軍兵士の逮捕を憂うるなど、その内容は極めて過激であり、また、日本赤軍の主張に酷似するものである。また、この声明文の掲載は、「隊伍を整えよ-日本赤軍宣言」と題する出版物の編集者からの依頼によるものであると考えられるから、右各声明文は、PFLPと原告との密接な関係のみならず、日本赤軍又はIRF・ICと原告との密接な関係をも示すものである。

イ 新聞報道によるPFLP幹部の発言等

昭和四七年六月二日付け東京新聞は、PFLPのバシム・スポークスマンが同月一日に共同通信記者と会見し、PFLPに協力している日本人として赤軍派幹部の重信と医師廷原たか子(原告の氏名を誤記したものと思われる。)を挙げ、「二人とも実によい人で働いてもらって助かっている。」とした上、「延原さんはレバノン南部にある難民キャンプで働いており、重信さんは最近日本から医療機械などの救援物資が到着したので、それの使い方を教えるため現在同じ難民の病院で働いている」と述べた旨の報道をし、また、同紙は、さらに、レバノンの新聞デイリー・スターが、同日テルアビブ空港を襲撃した日本人はPFLPに加わっている赤軍(ジャパニーズ・レッド・アーミー)グループの一部であり、同グループには女性を含む日本人医師からなる医療隊があり、赤軍は、医師、看護婦、器材からなる完全な野戦病院の提供を約束したが、これは「交流計画」の一部として取り決められたものである旨を報じたとの報道をした。

さらに、昭和五七年一二月二一日付けサンケイ新聞及び同日付け朝日新聞は、日本赤軍に近いPFLP幹部が同月一九日にレバノンで時事通信記者と会見してその当時の日本赤軍の動向を明らかにし、その中で、日本赤軍は現在一七、八人で、最高幹部の重信ら少なくとも四人はシリア国内にいること、このうち、重信はサミーラというシリア人名で自分の子供と一緒にいること、他の三人はダマスカス市内のPFLP事務所近くにおり、一人は女医、もう一人は歌が上手な女性であることを伝えた旨を報道した。

このように、原告と密接な関係を有するPFLPの幹部においてさえ、原告を日本赤軍の一員であると理解しており、また、原告は重信と行動を共にしていたのであって、原告は日本赤軍関係者として行動していたものというべきである。

(4) その他の事情

ア レバノン国防当局からの情報

レバノン国防当局から日本の外務省に対する情報によれば、レバノン国防当局は、PLOが撤退した後、ブルジュ・バラジュネキャンプを調査し、撤退前まで三人の日本赤軍女性がおり、そのうちの一人はスアドという名前であったことを把握した。

原告の現地名がスアド(スアード又はソアド。なお、アラビア語の発音には本来「オ」の母音はなく、「ウ」の母音に近く発音される。)であることは、前記(2)のエ及びオのとおりであるから、原告はレバノン国防当局からも日本赤軍関係者と目されていたことが明らかである。

イ 原告及び日本赤軍コマンドの出入国時期の一致

前記(1)の原告が日本に出入国した時期は、日本赤軍コマンド、特に丸岡修らのそれと一致している。このことは、原告が日本国内において、コマンドの「一本釣り」又は外国送り出しに何らかの役割を担っていたことを推測させるものである。

ウ 原告のシリアにおける居住地とPFLP及び日本赤軍の勢力範囲の一致

原告は、前記(1)のとおり、ベイルート撤退後、シリアのダマスカスに移住し、ヤルムークキャンプ診療所等で稼働していた。

他方、ダマスカス近郊には、パレスチナ解放人民戦線総指令部派(以下「PFLP・GC」という。)のキャンプがあり、日本赤軍構成員岡本公三を初めイスラエルの捕虜とされていたパレスチナゲリラが、解放後、同キャンプからベカー高原に移動したほか、前記(3)のイのとおり、PFLPの幹部筋が、重信と共に原告も日本赤軍の構成員としてダマスカス市内にいることを表明しており、日本赤軍構成員和光晴生もダマスカスのキャンプにいたことが外国の新聞記者により確認されている。また、ダマスカスは、ベカー高原に至る交通の要所で、同高原にいるとされる日本赤軍の前線を訪れるジャーナリストはいずれもダマスカス経由で、シュトウーラ又はパールベックにおいて接触をとっている。

右の事実は、ダマスカスからベカー高原までがPFLP及び日本赤軍の勢力下にあることを示しており、レバノン国内におけると同様、原告と日本赤軍関係者との交流がダマスカスにおいても可能であったものである。

エ 原告及び日本赤軍と人民新聞社との関係

人民新聞社(昭和五一年四月前の旧称は新左翼社。以下旧称当時を含めて「人民新聞社」という。)は、その発行する「人民新聞」(昭和五一年四月前の旧称は「新左翼」。以下旧称当時を含めて「人民新聞」という。)に、日本赤軍の声明を極めて頻繁に掲載し、時にはこれを他の報道機関に積極的に公表するなどしているほか、唯一の刊行物として日本赤軍の声明等をまとめた「団結をめざして-日本赤軍の総括-」を発刊し、また、その社説等でテルアビブ・ロッド空港事件を賛美したことを初めとして日本赤軍に対する支持支援を呼掛け、日本赤軍のポスターの販売斡旋を行い、さらに、日本赤軍に対する支援活動を行っている「三多摩パレスチナと連帯する会」に事務所、会合等の場所を提供して、その行う種々の集会を共催ないし協賛し、IRF・IC等の団体と共にシンガポール事件を支持する共同声明を発表するなど、日本赤軍ないしその関係者と極めて緊密な関係を有している。

原告は、右人民新聞社にイスラエルの軍事行動を非難するなどの現地報告を再三寄稿し、右報告は、一九七一年一〇月五日付け、一九八三年一二月一五日付け、一九八四年一月五日付け、同月一五日付け、同月二五日付け、同年四月二五日付け、同年五月五日付け及び同年六月五日つけの各人民新聞紙上に掲載されている。

(三) 原告の旅券法一三条一項五号該当性について

(1) 旅券法一三条一項五号該当性の判断基準

旅券法一三条一項五号は、治安維持あるいは国際関係における日本国の利益擁護等公共の福祉のために、基本的人権に対して合理的な制限をしたものであるが、同号の規定は、同項一号ないし四号の二と比較して、抽象的、概括的であり、同項五号による旅券発給拒否事由に該当するか否かの判断は、発給申請者の地位、経歴、人柄、旅行目的等の主観的事由はもとより、各国の治安対策、日本国の経済・外交政策、国際世論の動向等の国際情勢その他の客観的事情をも総合考慮し、高度の専門的知識に基づく裁量によって慎重に判断されなければならないところ、前記1のとおり、旅券法が同法一三条一項五号の事由による旅券発給拒否の権限を外務大臣に委ねた趣旨は、右の判断権者としては、右の点について専門的知識経験を有する外務大臣をおいて、他に見い出し難いからにほかならない。

しかして、旅券法一三条一項五号の規定に照らすと、同号は、処分時における外務大臣の合理的裁量判断により、申請者が著しくかつ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると、外務大臣において認めるに足りる相当の理由がある場合をその拒否事由としたものであって、外務大臣の判断を離れて、客観的、事後的判断により、申請者が右の行為を行うおそれがあるか否かを問題とするものではない。したがって、外務大臣が同号に該当するとして行った一般旅券発給拒否処分の取消訴訟において、拒否事由の存否を判断するに当たっては、右処分時に外務大臣が入手していた判断資料を総合勘案して行った認定判断が合理性を有するか否かを基準とすべきであり、これが違法となるのは、右認定判断がその裁量の範囲を逸脱して合理性を欠くことが明らかな場合であることを必要とするものと解すべきである。

(2) 原告の旅券法一三条一項五号該当性

ア 日本赤軍は、隠密裡に非合法的破壊活動を行う団体であり、主たる活動地域が日本から遠く離れているとともに、必ずしも思想的に統一された団体ではなく、その構成員が幹部及び一部コマンドを除き、常に流動的であるので、その構成員の把握は極めて困難である。

したがって、日本赤軍の構成員であるかどうか、これと密接な関係を有するかどうかの判断は、被逮捕者の自供、日本赤軍幹部の外部に対する声明やインタヴューでの発言、日本赤軍と緊密な関係にあるPFLPからの情報、マスコミ報道等の断片的資料(これらの資料中には、極めて確度の高いものから、単なるデマ、憶測の類まで様々のものがある。)を総合的に判断する以外にない。

被告は、前記(一)及び(二)の事実を根拠として、原告と日本赤軍との間には密接な関係があると認められるとの判断をしたものであるが、右資料を総合すると、原告が日本赤軍と行動を共にし、又は、これと極めて密接な関係にあることが認められ、本件拒否処分の理由が事実に即したものであることは明らかである。

イa 日本赤軍による前記(一)の(2)の破壊活動等に対しては、日本国内はもとより、国際世論からも非難が浴びせられているところであり、世界各国は、このような破壊活動を惹起させないよう自国の出入国管理を強化する一方、右破壊活動等の中心人物の所属国である日本に対しても、出入国管理の強化及び破壊活動等の再発防止に努めるよう強く期待している。また、国連総会においても、昭和五一年二月一五日、人質行為防止の国際条約案の起草が全会一致で採択され、テロ活動防止のための各国の協力が要請されている。

このような国際的環境下にあって、既往の日本赤軍関係者等による破壊活動等の中心的人物の所属国である日本が、原告を日本赤軍と密接な関係を持つと認められる者であることを知りながら、その海外渡航を認めれば、そのこと自体によって、テロ活動防止に関する日本の基本的姿勢について世界各国から疑惑を招き、非難を浴びせられるのは必定で、日本の国際的な信用を著しく損なうおそれがあるばかりでなく、国際関係に悪い影響をもたらし、日本の国益を著しく、かつ直接に害するおそれがある。

b 日本赤軍は、右aのような国際的非難の中で、孤立感を強める反面、その存在を世界に誇示するため、クアラルンプール事件、ダッカ空港事件にみられるように、人質と交換に、日本で拘禁中の過激派及び一般刑事犯らの釈放を求めて奪還するなどの犯行を重ね、海外組織の強化を図ろうとしており、また、前記(一)の(3)のとおり、今後も武装闘争を辞さない構えを示している。

このような状況下で、日本赤軍と密接な関係を持つと認められる原告の海外渡航を認めることは、直接、間接に日本赤軍の組織の充実をもたらすことにつながり、日本の公安を直接、間接に侵害するおそれが極めて強いものである。

(四) 結論

以上のとおり、被告が、原告について日本赤軍との間に密接な関係が認められると判断し、著しくかつ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当の理由があるとしてした本件拒否処分には合理性が存するのであるから、本件拒否処分は適法である。

四  被告の主張に対する原告の認否及び反論

1  被告の主張1の主張は認める。

2  同2の主張は争う。

3(一)(1) 同3の(一)の(1)のうち、日本赤軍が、昭和四六年二月にアラブに渡った重信らが共産主義者同盟赤軍派から分派して組織したグループで、当初はアラブ赤軍とも称したことは認め、その余は不知。

(2)ア 同(2)のアのうち、岡本公三ら三名がテルアビブ・ロッド空港の待合室で群衆約三〇〇人に向けて自動小銃を乱射し、手投げ弾を爆発させて九八人を殺傷するという無差別殺人事件を敢行したことは否認し、その余は認める。

岡本公三は、法廷で、群衆に向けて銃を発射したことは否認しており、同人に対する求刑及び判決も殺人についてのものではない。

イ 同イ及びウは認める。

ウ 同エのうち、山田義昭が逮捕されたことは認め、その余は不知。

エ 同オないしクは認める。

オ 同ケ及びコは不知。

カ 同サは認める。

キ 同シは否認する。

(3) 同(3)は否認する。

被告主張の声明文等又は会見若しくは手記における「武装闘争」とは、アラファト議長主導のPLOが結成以来パレスチナ解放の主要手段として宣言し、実行してきた対イスラエル戦争の戦闘行為の趣旨であり、これは、PLOの抵抗組織と終始共闘してきた日本赤軍の当然固執する闘争方針である。なお、PLOは、昭和六三年一一月のパレスチナ民族評議会(PNC)第一九回大会で採択された政治綱領において今後テロ手段をとらないことを宣言し、その後、PFLP及び日本赤軍とも同様の声明を出している。

(4)ア 同(4)のアのうち、PFLPが、PLO内の一組織であることは認めるが、その余は否認する。

PFLPが、PLOの重要な構成分子であることは終始変わらず、昭和四七年にPLOの執行委員会から代表を引き上げ、その状態が約八年間継続した間も、PFLPの武装隊は、PLOの武装力として、対イスラエル戦闘に常に参加し、その実力は評価されている。また、PFLPは、反対意見は明白に表明しながらも、PLOの多数による決議には従う態度を保持しており、昭和五七年のベイルート撤退の際にも、PLOの他の部隊と共に統一ある撤退行動をとっている。

イ 同イのうち、日本赤軍がこれまでの闘争においてPFLPと共闘してきたことは認める。ただし、岡本公三の奪還の交渉に当たったのは、PFLP・GCであり、同派はPFLPとは別個の組織である。(二)(1) 同(二)の(1)のうち、イは否認し、その余は認める。

原告は、赤三日月社に所属する医師として、終始赤三日月社の診療所等で稼働していたものである。ただし、PFLPもパレスチナその他の地域にある難民キャンプ内に診療所を有しており、これらの診療所は、医師、医薬、医療材料等の点で赤三日月社と緊密に協力しあっている。原告も昭和四六年冬ころ、スールのラシャディーエキャンプ内の赤三日月社の診療所に移って、同診療所で稼働していた際、同じラシャディーエキャンプ内のPFLPの診療所に出向いて診療を行い、あるいはPFLP等の組織が行っていたレバノンの無医村への巡回診療に参加したことはある。

(2)ア 同(2)のアのうち、原告がベイルートに渡航した直後に重信と交際したことがあることは認め、その余は否認する。

右の時期の重信との交際は、数少ない在留邦人同士としてのもので、その時期もテルアビブ・ロッド空港事件が起こる前までであり、また、当時は、重信はベイルート市内で自由に行動しており、日本大使館にも公然と出入りしていた。

イ 同イは否認する。

なお、仮に行者及び西川が司法警察員に対し被告主張の供述をしたものとすれば、右両名は、原告の氏名を知らなかったというのであるから、原告とは供述にある昭和四九年ころに初めて会ったものであると解せられる。しかして、行者及び西川は、後に司法警察員から原告の写真を示されて、それが右の当時会っただけの原告であると判定し得たことになるが、行者及び西川が示された写真は、原告が昭和四二年ころ学園紛争に参加していて逮捕勾留されたときに写されたもので、原告が中学一年のころから常時使用している眼鏡もかけておらず、レバノン渡航以来、境遇の激変のため、やせて頬がこけるなどした昭和四九年ころの原告の容姿とはかなり異なっているものである。したがって、行者及び西川が、右の写真を原告と判定し得たとすることは不自然で、右供述はいずれも信用性がないものといわなければならない。

ウ 同ウは否認する。

被告主張の松田の手紙文なるものについては、その成立の真正について何ら明らかとされておらず、その内容の信憑性は疑わしいのみならず、文中の「ドクター」が原告を意味するものであるとする根拠もない。

エ 同エのうち、被告主張のノートが存在することは認め、その余は否認する。

なお、右ノートの「ドクトル」とは、足立の要請でベイルートに赴き、足立及び重信並びにPFLP関係者と会見した上で、在レバノンリビア大使館を通じ、日航機ハイジャック事件でリビアに拘束されていた日本赤軍コマンド及びパレスチナゲリラの釈放の交渉をした弁護士庄司宏を指すものである。

オ 同オのうち、被告主張の換字表の存在は認め、その余は否認する。

足立の所持していた換字表の上位部分に原告の名やアラブ名が記載されていたとしても、それだけでは原告と日本赤軍との間に密接な関係があるとの根拠とはなり得ない。ことに第二の換字表においては、被告により日本赤軍のリーダーと目されている重信の暗号名とされている「マリアン」の上位に和光や原告の名が記されているのであるから、当該換字表が日本赤軍の構成員及びその地位等を表すものと解すよりは、足立個人との関係で何らかの必要性のある人物等をその必要性の深浅に応じて記載したものと解するのが常識的である。

なお、原告は、昭和四七年に帰国した際、足立からアラブ詩人ガッサン・カナファーニに対する連絡を手伝ったことがあり(当時は、足立は日本赤軍構成員とは目されていなかった。)、また、原告がレバノンに在住する日本人医師であるということで、日本を出国するに当たり、足立が原告の名を記載したものと考えられる。

(3)ア 同(3)のアは否認する。

原告は、「PFLP日本人医療隊」又は「日本PFLP医療委員会」なる組織に関係したことがないことはもちろん、その存在さえも知らず(そもそも、右組織の存在を証する資料は、被告主張の「隊伍を整えよ-日本赤軍宣言」なる出版物に掲載された記事のみであって、他には全く存在しない。)、被告主張の声明文の作成に関与したことはない。

なお、被告は、右声明文の作成者を原告であるとする根拠として、レバノン在留の原告以外の日本人医療関係者である中野がベイルート近辺に止まっており、レバノン南部の病院で稼働していた日本人医療関係者は原告のみであることを挙げるが、仮にそうであるとすれば、右声明文の主語が「我々」、「私たち」等と複数形となっていることと符合しない。

イ 同イは否認する。

被告主張の東京新聞の記事中のPFLPバシム・スポークスマンの共同通信記者との会見記事からは、原告がPFLPに協力していることは読み取れても(原告がPFLPの医療機関に協力していたことは前記のとおりである。)、原告が日本赤軍の構成員等であるとの趣旨には読めないし、また、日本赤軍がPFLPに医師、看護婦、器材からなる完全な野戦病院の提供を約束したとのデイリースター紙からの引用記事については、当時の日本赤軍にそのような物資的力量がないことは明らかであって、その信用し難いことは明白である。

また、被告主張のサンケイ新聞及び朝日新聞の記事については、時事通信記者と会見したというPFLP幹部の名も明らかにされていない上、その発言内容も、事実に反し(PFLPの情報責任者であるアブ・シャリフは、原告代理人の照会に対し、右記事の内容に沿う事実は存在しない旨を回答している。)、信用できるものではない。

(4)ア 同(4)のアは否認する。

なお、レバノンの「国防軍」なるものの実態は、同国の各政治勢力の抱える私兵の寄せ集めであって、その情報は、客観性及び中立性に乏しいものと評価されている。

イ 同イは否認する。

ウ 同ウは否認する。

PFLP・GCがPFLPとは別個の団体であることは前記のとおりである。また、ベカー高原に向かうのにダマスカスを経由する道筋をとるのは、レバノンの内戦でベイルート空港が閉鎖されている最近の状況であって、通常は、ベイルート経由の道筋であり、ダマスカス経由は厳しく制限されている。

なお、ダマスカスはシリアの首都であって、同市におけるPFLPの活動はシリア政府の厳しい監視を受けており、ダマスカスからベカー高原までがPFLP及び日本赤軍の勢力下にあるなどという状況は全く存在しない。

エ 同エは否認する。

(三)(1) 同(三)の(1)の主張は争う。

請求の原因の2の(一)の(1)で述べた海外渡航の自由の権利としての性格に鑑みると、仮に旅券法一三条一項五号が直ちに違憲ではないとしても、これに基づいて一般旅券発給拒否処分をするには、外務大臣が抽象的に同号の規定に該当すると認めるのみでは足りず、そこに定める害悪発生の相当の蓋然性が客観的に存することを認定する必要があり、このような蓋然性の存在しない場合に旅券発給拒否処分を行うときは、その適用において違憲となると判断され、その処分は違憲の処分として正当性を有しないこととなるものである。

(2) 同(2)の主張は争う。

原告が「日本赤軍と密接な関係を有する」とか「日本赤軍に有形無形の支援活動をするなどしてその破壊活動を援助助長する関係にある」とかいった事実関係を認めるに足りる客観的な根拠は何ら存在しない。また、「テロ活動防止に関する日本の基本的姿勢について世界各国から疑惑を招く」とか「日本国の国際的信用を損なう」とかいう害悪の生ずる蓋然性についても何ら客観的な裏付けが存していないのみならず、諸外国は、そのボランティア活動に対する理解並びにレバノン及びシリアのパレスチナ人キャンプにおける原告の献身的な診療活動に対する評価からして、日本国が原告に対し旅券を発給したとしても、テロ活動防止に対する日本国の基本的姿勢を疑い、あるいは日本国に対し不信を抱くようなことは決してあり得ないのであるから、原告について旅券法一三条一項五号を適用し、旅券の発給を拒否することは、その適用において違憲であるといわざるを得ない。

(四) 同(四)の主張は争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

第一  請求の原因1の事実は当事者間に争いがない。

第二  原告は、旅券法一三条一項五号の拒否基準の内容が不明確であって、行政府(外務大臣)の政治的考慮に基づく恣意的な裁量判断により、憲法上保障された国民の海外渡航の自由を制約することを可能とするものであるから、同号の規定は憲法に違反するものである旨主張する。

しかして、国民の海外渡航の自由は、憲法二二条二項によって保障された自由権であるが、公共の福祉に基づく合理的な制約に服するものであると解すべきところ、旅券法一三条一項五号は、海外渡航の自由に対し、公共の福祉の観点から合理的な制約を課したものと解することができるのであって、その規定する旅券発給の拒否の基準が不明確であり、外務大臣の恣意的な裁量判断を可能とするとまではいうことができないから、同号の違憲をいう右主張は失当というべきである。

第三  そこで、本件拒否処分が適法であるかどうかについて検討する。

一  本件拒否処分についての被告の権限について

本件拒否処分は、昭和五七年九月一日に、当時シリアに在住していた原告が在シリア日本大使館を経由してした一般旅券発給申請に対して被告がしたものであることは、第一のとおりである。

ところで、旅券法三条一項、五条一項及び六条一項によれば、国内において旅券の発給(発行及び交付を併せ指すものと解される。)を受けようとする場合には、申請者が原則として都道府県に出頭の上都道府県知事を経由して外務大臣に対し申請書その他の書類を提出して発給の申請をし、これに基づいて外務大臣が旅券の発行をして、都道府県知事が当該申請者に交付するものとされているのに対し、国外において旅券の発給を受けようとする場合には、申請者がもよりの領事館に出頭の上領事官に申請書その他の書類を提出して発給の申請をし、これに基づいて領事官が旅券の発行をして、当該申請者に交付するものとされていて、国内と国外とでは旅券の発給の手続が明確に区分されており、国外においては、領事官がその権限を有していることが明らかである。しかして、旅券の発給を拒否することは、旅券を発給することと表裏の関係にあるというべきであるから、国外において、右のように領事官が旅券を発給する権限を有するものとすれば、旅券法一三条一項に基づいて旅券の発給を拒否する権限もまた原則的には領事官にあるものと解すべきである。

しかしながら、旅券法一三条一項五号は、申請者が、外務大臣において著しくかつ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがあると認めるに足りる相当の理由のある者に該当する場合を一般旅券発給の拒否の事由としており、また、同条二項は、外務大臣は同条一項五号の認定をしようとするときは、あらかじめ法務大臣と協議しなければならないとしているのであるから、同号の要件に該当するか否かの判断権は外務大臣に専属するものと解されるところ、旅券法一三条一項五号について、同号の要件に該当するか否かについての判断を行う行政機関と同号に該当することを理由として旅券の発給をしない旨の行政処分を行う行政機関とを異にしなければならない格別の理由は見い出し難い上に、旅券法が同号の処分の過程についてそのようなむしろ異例ともいうべき構造を採用していると考えるべき特段の根拠事由も考え難く、そうだとすれば、同号に基づいて一般旅券の発給を拒否する場合に限っては、例外として申請者が国内にあると国外にあるとを問わず、右の処分の権限は外務大臣に専属すると解するを相当とする。

したがって、被告は、本件拒否処分を行う権限を有するものである。

二  理由付記不備の違法の主張について

原告は、被告が本件拒否処分を原告に通知するに当たって付記した処分理由について、被告が認定した事実関係や原告が日本国の利益又は公安を害するどのような行為を行うおそれがあるとするのかが一切不明であり、原告の本件申請が拒否された理由を読み取ることができないものであるから、右理由の付記は旅券法一四条に違反するものである旨主張する。

しかして、旅券法一四条が一般旅券の発給拒否処分の通知に拒否の理由を付記すべきものとしているのは、一般旅券の発給を拒否すれば、前記のとおり憲法二二条二項で保障された国民の自由権である海外渡航の権利が制約されることとなることに鑑み、拒否事由の有無についての処分権者の判断の慎重と公正妥当とを担保してその恣意を抑制するとともに、拒否の理由を申請者に知らせることによって、その不服申立ての便宜を図る趣旨に出たものであるから、右通知に付記すべき理由としては、いかなる事実関係に基づきいかなる法規を適用して一般旅券の発給が拒否されたかをその記載自体から了知し得るようなものでなければならず、ことに、同法一三条一項五号のごとき概括的、抽象的な文言で規定された拒否事由に基づいて一般旅券の発給を拒否する場合においては、いかなる事実関係を認定して申請者が同号に該当すると判断したかを具体的に記載することを要するものと解すべきである。

これを本件についてみるに、本件拒否処分の通知に付記された理由が「貴殿の従前からのいわゆる日本赤軍との密接なる関係にかんがみ、貴殿は旅券法一三条一項五号にいう著しくかつ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者に該当する」というものであることは第一のとおりであって、右のうちの「貴殿の従前からのいわゆる日本赤軍との密接なる関係」という部分が被告の認定した事実に当たり、その余の部分が旅券法一三条一項五号によって旅券発給拒否の事由とされている申請者の行うおそれのある行為の部分に当たると解せられるところ、その記載の文言のみを取り出してみれば、右に述べたような、いかなる事実関係を認定して申請者が同号に該当すると判断したかについての具体的な記載としては、いかにも、概括的、抽象的に過ぎるものであって、旅券法一四条が要求する理由付記の要件を充足しているものとみることは困難であるといわざるを得ない。

しかしながら、いわゆる日本赤軍が、日本人からなる極左集団であって、アラブ地方を根拠地として主に海外において活動し、本件拒否処分当時までに数々の破壊的暴力行為を現に敢行していることは公知の事実であり(日本赤軍の敢行した破壊的暴力行為とは、具体的には後記三の1の(一)に認定する行為のことであるが、これらの行為の個々具体的な内容の詳細についてはともかく、これら一連の行為の概要については、新聞、雑誌、テレビ等の報道によって国民一般にあまねく知られているものということができる。)、このことから、本件拒否処分当時において以後も同様の破壊活動を行う危険が予測される状態にあったというべきところ、右の処分理由とかかる事実とを併せ考えれば(旅券発給拒否の根拠となる事実関係及び適用法条が付記された理由の記載自体から了知し得るものでなければならないということが、その記載の文言と右のような公知の事実とを併せ考えることを妨げるものでないことはもちろんである。)、「著しくかつ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれがある」ことに至る「原告の従前からの日本赤軍との密接な関係」とは、日本赤軍の構成員であるというわけではないが、単に日本赤軍ないしはその活動の共感者であるとか、日本赤軍の構成員と偶々接触をしたことがあるとかということに止まらず、原告が、過去において、日本赤軍の組織、戦力の充実に寄与する活動をしたとか、積極的にその活動の支持を宣明するなどしてこれを支援する活動をしたとか等といったような日本赤軍に対する有形無形の支援活動をするなどして、その破壊活動を援助助長するような関係にあったとの趣旨であると読み取れないことはなく、そうであるとすれば、翻って、本件拒否処分の通知に付記された理由中の、原告が行うおそれのある「日本国の利益又は公安を害する行為」も、日本赤軍との間でその破壊活動を援助助長する前同様の関係を保ち、日本赤軍が行う危険のある新たな破壊活動を容易にさせ、ひいては国際社会における日本国の信用を失墜させてその利益を損ない、あるいは、日本国の公安を害することを意味するとの趣旨を窺うことができないわけではない。

したがって、本件拒否処分に付記された理由は、これを全体としてみれば、十全とはいい難いものの、旅券法一四条に違反する不備があるとまではいえないものであり、本件拒否処分に理由付記不備の違法があるとする原告の主張はこれを採用しない。

三  旅券法一三条一項五号該当性の有無について

被告は、原告が日本赤軍と密接な関係、すなわち日本赤軍に対して有形無形の支援活動をするなどしてその破壊活動を援助助長するような関係(なお、以下「密接な関係」というときは、このような関係を指す。)にあったとした上で、原告は旅券法一三条一項五号の「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」に当たると主張するので判断する。

1  日本赤軍の組織実態及びその破壊活動等

(一)(1) 被告の主張3の(一)の(1)のうち、日本赤軍が、昭和四六年二月にアラブに渡った重信らが共産主義者同盟赤軍派から分派して組織したグループで、当初はアラブ赤軍とも称したこと、同(2)のアのうち、昭和四七年五月三〇日にイスラエルのテルアビブ・ロッド空港で、奥平剛士及び安田安之が自爆し、岡本公三がイスラエル当局に逮捕された後、終身刑の判決を受け服役していたこと、同エのうち、山田義昭が逮捕されたことは当事者間に争いがないところ、右争いのない事実に、〈証拠〉を総合すると、被告の主張3の(一)の(1)の事実並びに同(2)のア及びエの各事実を認めることができる。

(2) 同(2)のイ、ウ、オないしクの各事実は、当事者間に争いがない。

(3) 同(2)のケないしシの各事実は、〈証拠〉によれば、これを窺い得ないではない。

(二) 〈証拠〉によれば、日本赤軍は、ダッカ空港事件のあった昭和五二年以降本件拒否処分時である昭和五八年までの間に、「団結をめざして-日本赤軍の総括-」と題する出版物(昭和五二年一二月一〇日発刊)、一九七八年一月五日付け、同年二月五日付け、同年三月一五日付け、同年五月一五日付け、同年五月二五日付け、同年六月五日付け、同年六月一五日付け、同年六月二五日付け、同年一一月二五日付け及び一九八〇年一月一五日付けの各人民新聞紙上に発表した声明文及び論文等、「国際主義を実践しよう-リツダ闘争九周年を迎えて」と題するパンフレット(昭和五六年発行)において、従前のハイジャック闘争等のいわゆる武装闘争を肯定もしくは評価し、あるいはこれを継続する趣旨を述べているほか、日本赤軍の中心人物である重信が一九八一年七月三一日付けの朝日ジャーナル誌に掲載された会見記において同趣旨の発言を行っていることを認めることができ、右事実によれば、本件拒否処分時において、日本赤軍による破壊活動の再発の危険性がなお存在していたということができる。

なお、原告は、右声明文等にいう「武装闘争」とは、日本赤軍が終始共闘してきたPLOの対イスラエル戦争における戦闘行為の趣旨である旨主張するが、前掲各証拠上、右声明文等の「武装闘争」の趣旨をそのように限定することはできない。また、原告は、昭和六三年一一月以降に、PLO、PFLP及び日本赤軍は今後、テロ手段を取らないことを宣言した旨主張するけれども、右事実は、それが認められるとしても、本件拒否処分から相当に後のことに属する上、日本赤軍の過去の行動に照らすと、右宣言が直ちにその文言どおり実行されるとも考え難いから、右宣言は本件拒否処分の当否判断に当たっては特にこれをとり上げない。

(三) 被告の主張3の(一)の(4)のアのうち、PFLPがPLO内の一組織であること、同イのうち、日本赤軍がPFLPと共闘してきたことは当事者間に争いがなく、右事実に、〈証拠〉を総合すれば、本件拒否処分当時、PLOは、ファタハ、PFLP、PFLP・GC、アル・サイカ等の武装組織及び一般のパレスチナ人の代表等によって構成され、議会に相当するパレスチナ民族評議会(PNC)、内閣に相当する執行委員会等の機関を持ち、パレスチナ人を代表する唯一合法的な組織として国際的な承認を得ている組織であったところ、PFLPは、パレスチナ民族評議会に代議員を、また執行委員会に代表を送っているPLOの有力構成メンバーではあるものの、マルクス主義的思想傾向を有し、PLOの歴史を通じ、その内部においてはファタハを中心とする主流派に対して少数急進派の立場にあって、昭和四〇年代後半にハイジャックなどの過激な行動に出たり、また日本赤軍とともにシンガポール・クウェート事件を敢行したりしたほか、昭和四九年にいわゆるミニ・パレスチナ国家構想の受入れの許否等をめぐる対立から、PFLP・GCとともに執行委員会から代表を引き上げ、昭和五六年に復帰した後も、昭和五七年六月以降のイスラエルのベイルート侵攻に際しては、主流派の提案した国外退去案に反対して主流派と対立したが、最後には国外退去の決定に従ったこと、日本赤軍は、その中心人物である重信がレバノン渡航直後にPFLPに連絡を取り、その指導の下にテルアビブ・ロッド空港事件を敢行し、PFLPの戦闘員とともにシンガポール・クウェート事件を引き起こしたほか、対イスラエル戦争における戦闘行為においてもPFLPと共闘するなど、その成立の当初から本件拒否処分時までPFLPと緊密な関係を有していたことを認めることができる。

2  原告と日本赤軍との関係について

(一) 原告の出入国の状況及び中東における移動状況について

(1) 被告の主張3の(二)の(1)のア及びウないしオの各事実は当事者間に争いがないところ、〈証拠〉によれば、赤三日月社は、PLOの機関で、多数の病院、診療所、医院等を開設し、医療を中心とする社会事業を行うほか、アラブの赤十字社連盟及び赤三日月社連盟に加盟し、また、赤十字国際委員会、世界保健機構(WHO)等にオブザーバーの資格で参加する概ね我が国の日本赤十字社に相当する活動を行う機関であることが認められる。

(2) 被告は、原告が昭和四六年冬ころに、政治的立場の相違により中野と喧嘩別れの状態となって同人とは別行動を取ることとし、ベイルート市内にある赤三日月社のアルコッツ(ジェルサレム)病院から、スールのラシャディーエキャンプ内のPFLP直轄の診療所に移り、昭和四九年五月まで同診療所で医療活動に従事した旨主張する。しかし、原告本人尋問の結果によれば、原告は、昭和四六年冬ころ、右アルコッツ病院からレバノン南部のスールのラシャディーエキャンプ内にある同じく赤三日月社の療養所に移籍して同療養所の診療所で稼働していたが、その時期に同キャンプ内にあったPFLPの診療所から応援を請われて、これに出向いて診療を行ったことがあるとの事実を認めることができるものの、被告主張のごとく赤三日月社の診療施設を離れてPFLPの診療施設に移ったとの事実を認めるに足りる証拠はない。

なお、この点につき、〈証拠〉には、原告が右アルコッツ病院から赤三日月社とは別の解放組織の病院に移籍した旨を述べる部分があるが、右供述記載は、その解放組織の名称に触れておらず、また、移籍した病院の名称も解らないとしているのであるから、右供述記載により右被告主張事実を認めることができないことはもとより、これのみによっては、原告が赤三日月社とは別の解放組織の病院に移籍したとの事実を認定することも困難であるというべきである。

(二) 重信との交際関係の主張について

被告は、原告がベイルートに渡航してから、現地において重信と交際し、テルアビブ・ロッド空港事件が発生した昭和四七年五月三〇日以降も、同人との接触を保っていたばかりでなく、重信が日本赤軍の最高幹部としてその破壊活動を指導していることを知りながら日本赤軍のアジトに出入りし、また、積極的に重信と他の者との連絡役等を努めていた旨主張するところ、右事実のうち、原告がベイルートに渡航した直後に重信と交際したことがあることは当事者間に争いがなく、右争いのない事実に〈証拠〉によれば、原告は、昭和四六年四月に中野とともに、ベイルートに渡航した後、ベイルート市内において重信と知り合い、同年五月ころ若松及び当時同人とともに映画製作に携わっていた足立が映画撮影のためベイルートを訪れた際に中野や重信とともに若松らに会ったり、同年夏ころ重信を診察したりしたこともあったこと、当時は日本赤軍は未だ結成されていないか、少なくとも活動を開始していなかった時期で、重信は、その所在を明らかにして、ベイルート在留の報道関係者その他の邦人と公然と交際し、在レバノン日本大使館員とも接触を保っており、同人が所在をくらましたのは、昭和四七年四月ころのことであることを認めることができる。

なお、〈証拠〉によれば、昭和四六年五月二二日付けの読売新聞に、そのころ重信が原告及び中野とともにベイルート郊外の「ゲリラ病院」で稼働している旨の記事が掲載された事実を認めることができるけれども、〈証拠〉によれば、読売新聞社は、右記事の重信に関する部分が誤りであることを認める社会部長及び外報部長名の謝罪文をパレスチナ難民支援センター宛に郵送したことを認めることができるほか、仮に被告において右読売新聞社の謝罪の事実を把握していなかったとしても、前記のとおり、その所在を明らかにし、報道関係者とも交際していた重信が当時医療機関で稼働していた事実を伝えた報道が他には見当たらないのであるから、右読売新聞記事の重信に関する部分の信憑性には疑いを持って然るべきであり、右読売新聞記事によって、原告と重信との間に昭和四六年当時、前述した以上の交際があったと認定することは困難というべきである。

被告の前記主張事実のうち、昭和四七年五月三〇日以降の原告と重信との関係については、被告が別に改めて主張するところであるから、後に検討する。

(三) 行者の供述について

〈証拠〉によれば、行者は、ストックホルム滞在中の昭和四九年二月ころ、日本赤軍構成員である北川明の誘いにより翻訳作戦に加わり、主にスイスのケルンにおいて日本商社員の行動調査に当たっていたところ、同年七月二六日に日本赤軍構成員である山田義昭がパリで逮捕されたことから、同年八月末にベイルートに逃走し、同年一〇月初めからバクダッドに滞在し、同年一一月末又は一二月初めに一旦ベイルートに戻った後、同月末にストックホルムに帰り、さらに、昭和五〇年八月にアメリカに密入国するため偽造の選挙人登録カードを米加国境の検問所で示して発覚し、日本に送還されて同年九月一日に偽造有印私文書行使の被疑事実により逮捕勾留され、同事実により有罪判決を受けたこと、行者が逮捕後司法警察員に対し、ベイルートに逃走した当時、同地に残っていた人物として、「重信房子、丸岡修、日高俊彦、シルビー、足立正生、痩身の二〇歳位の日本人女性、戸平」と並んで、「ドクター(日本人女性三〇歳位)」を挙げ、司法警察員の示した一三〇葉の写真の中から原告の写真を「ドクター、三〇歳位女」と特定した旨の昭和五〇年九月八日付けの供述調書が存在すること、右の原告の写真は、原告が昭和四四年ころ、デモ行進に参加して逮捕された際に撮影されたもので、原告が常時使用している眼鏡をかけずに写されていること、また、行者が同じく司法警察員に対し、ベイルート滞在中にハーグ事件が発生したことに関し、「重信、丸岡、私、足立、日高らは、拠点の『なみだ橋』に集まり、ラジオ、新聞などに注意深く関心を払い焦慮のときを過ごしました。この拠点には主として重信、丸岡、私、遅くなって戸平らがつめ、時々足立、二〇歳位の日本人女性、ドクター、日高らが来て、コマンドが何時何処で動くか待っていた訳です。」との供述をした旨の昭和五〇年九月一五日付けの供述調書が存在すること、右の 「なみだ橋」については、前記同月八日付けの司法警察員に対する供述調書において、「彼らが『なみだ橋』と呼んでいるハムラ地区にあるアパート(三部屋)」と説明されていることをそれぞれ認めることができる。

しかして、右各供述調書の右の部分に信用性が認められれば、原告は、行者によって、ベイルートに在留していた日本赤軍関係者の一員で、他の関係者から「ドクター」と呼ばれていた者と認識されており、かつ、原告が重信ら日本赤軍構成員とともにその拠点においてハーグ事件(昭和四九年九月に発生)の成り行きに注目していたとの事実を認定することができるというべきところ、被告は、行者の供述調書の右部分の信用性について、行者は供述拒否権があることは十分に知悉しており、その上で、自己の意思で任意に供述をし、あるいは供述を拒否していたのであるから、取調官が行者を誘導し得る余地はなく、行者が虚偽の供述をすることも考えられないし、また、行者に対する取調べは、食事時間や休憩時間も設けられていて、時には行者から冗談が出ることもあるような状況であり、さらに、行者の供述の内容が極めて詳細かつ具体的であり、行者はいわゆる「落ちた被疑者」となっていたものであるから、行者の供述が任意に出たものであることはもとより、その内容も真実と認めることができる旨主張し、また、西川及び戸平和夫の供述とともに行者の供述によって、日本赤軍が大きな打撃を受けたことに関連して、日本赤軍ないし重信が、これを自己批判の対象として構成員に反省を求めており、このことは行者らが日本赤軍に関する真実をいかに多く供述したかを物語るものである旨主張する。

しかしながら、行者は、本件の証人として、当時、ベイルートにおいて原告と会った記憶はなく、右各供述調書中の「ドクター」と呼ばれていた者がベイルートに在留していた旨の供述及び原告の写真の特定は取調警察官の誘導による旨を供述しているところであるが、この点は措くとしても、〈証拠〉によれば、行者は、北川明に誘われて、翻訳作戦について日本赤軍構成員と行動を共にしたが、日本赤軍のその他の破壊活動については関与していない上、日本赤軍ないし重信は、その声明、会見記、手記等において、ストックホルム事件で逮捕された西川及び戸平和夫が取調べにおいて日本赤軍に係る構成員の状況、活動内容等を供述するに及んだことについては、これを「ストックホルム事件での敗北」と称し、組織のあり方等に関する自己批判の対象としているけれども、行者の自供については特に問題視している形跡がないのであるから、行者は日本赤軍の一時的な協力者ではあってもその構成員とまではいえないこと、行者の逮捕事実であり、有罪判決における罪となるべき事実となった偽造有印私文書行使の事実は、翻訳作戦その他日本赤軍の活動とは直接関係を有しないこと、公安当局は、行者の取調べ以前に、既に原告が日本赤軍関係者から「ドクター」と呼ばれている旨の情報(ただし、入手先は明らかでなく、その真偽の程を確定することはできない。)を得ていたことがそれぞれ認められ、右各事実によれば、行者が供述拒否権のあることを知悉し、その取調べに食事時間や休憩時間が設けられ、また、行者がいわゆる「落ちた被疑者」であって、冗談もいい、供述の内容が詳細かつ具体的であったとしても、その日本赤軍に関する供述の細部の正確性には疑問があり、前記各供述調書の行者の供述のうち原告に関する部分についても取調べ警察官の誘導によるものではないと断定することはできず、その疑いは残るというべきであるのみならず、前掲各証拠によれば、行者の供述調書の内容自体に関しても、日本赤軍の構成員として名を挙げられている前記の者のうち「ドクター」についてだけは、ハーグ事件の成り行きに注目していたとの行為以外、その具体的な行為について何ら言及していないのであるから、行者が「ドクター」を日本赤軍構成員であるかのように供述したものとすれば、同人が「なみだ橋」に来てハーグ事件の成り行きに注目していたとの行為に基づくものと解されるところ、前記2の(一)の(1)のとおり、原告は、昭和四九年九月当時はレバノン南部のスールのキャンプ内の医療機関に在籍して診療活動に従事していたのであるから、行者の供述するごとく、ハーグ事件の発生から終了(日本赤軍コマンドのオランダからの脱出)までの四、五日の間に、ベイルートの「なみだ橋に時々来る」ことが可能であったかどうか疑わしいこと、行者が示された原告の写真は昭和四九年から五年前に撮影されたもので、原告が常時使用している眼鏡もかけておらず、これを原告の写真と特定し得たかどうか疑わしい上、その年齢についても、昭和四九年九月当時であれば原告は三四歳のはずで、しかも、レバノンで診療活動に入ってから三年以上を経て、実際の年齢よりは老けて見えたものと思われるのに、これを三〇歳位としているのはやや不自然であること(因みに、撮影当時であれば原告は二九歳であったから、写真に写っている原告の年齢を三〇歳位とすることに不自然さはない。)などが認められ、これらの事実を併せ考えると、前記各供述調書中の行者の供述のうち、原告に係る部分の信用性は疑わしく、これによって、原告が日本赤軍の構成員ないし関係者であって、他の関係者から「ドクター」と呼ばれ、また、重信ら日本赤軍構成員と共にハーグ事件の成り行きを注目していたとの事実を認定することは困難であるというべきである。

(四) 西川の供述について

西川が日本赤軍構成員であり、昭和四九年九月のハーグ事件に参加した後、ストックホルム事件で昭和五〇年三月に逮捕されたが、同年八月のクアラルンプール事件の際に日本赤軍に奪還され、その後、五二年九月のダッカ空港事件に参加したことは、前記1の(一)のとおりであり、〈証拠〉によれば、西川は、昭和四八年五月に出国してベイルートで日本赤軍に合流した後、翻訳作戦に参加して昭和四九年五月末ないし六月初めころから同年八月ころまでデュッセルドルフに滞在し、同作戦の失敗後右のとおりハーグ事件に参加したものであることが認められるところ、〈証拠〉によれば、西川がストックホルム事件で逮捕された後、司法警察員に対し、「いままで話してきた人名について写真を見ながら説明する」として、司法警察員の示した五一葉の写真の中から、和光晴生、奥平純三、山田義昭、丸岡修、日高敏彦、戸平和夫、重信、吉村和江、北川明、島田恭一、行者、山本万里子、足立の写真合計二一葉とともに、原告の写真一葉を抽出し、これについて「名前は知りませんがベイルートで見たことがあります。アジトで偶然見かけたことがあります。この人が信原孝子であることはいまはじめて知りました。」との供述をした旨の昭和五〇年五月二日付け供述調書が存在すること、右の原告の写真は、右(三)の写真と同じく原告が昭和四四年ころデモ行進に参加して逮捕された際に撮影されたものであるが、原告が眼鏡をかけて写されているものであることを認めることができる。

しかして、右供述調書の原告に係る部分の信用性が認められれば、これによって、原告がベイルートの日本赤軍のアジトに出入りしていた事実を認定することができるものというべきところ、被告は、この点につき、西川は当初黙秘を続けていた後に供述を始めたもので、「アジト」という用語も同人から用いたものであり、また、原告の写真を選別した際の態度についても、見たのはこの人かも知れないという程度のものではなく、事実原告を見たとして選別したものであって、その供述が任意にされたものであることはもちろん、信用性も極めて高い旨主張する。

しかしながら、前述の西川の活動経過からみて、西川が右の人物を見かけた時期は、昭和四八年五月以降昭和四九年六月ころまでの間又は同年九月のハーグ事件でシリアに投降し同年末ころまでに釈放された後昭和五〇年三月までの間と考えられるところ、西川が示された原告の写真はこの時期から四年ないし六年前に撮影されたものである上、供述調書の記載内容自体に関しても、西川は当該人物の氏名あるいは現地名を知らず、また、見かけた際の当該人物の具体的な行動等はもとより、見かけた時期やアジトの具体的な位置、名称等についても何ら触れていないのであるから、西川と当該人物との間には、西川がそれまでは全く知らなかった人物を偶々見かけたという以上の接触はなかったものと推測することができ、このように殆ど接触のない人物を、後になって、たとえ眼鏡をかけて写されているにせよ、右のように見かけた時期から四年ないし六年前の写真を見ただけで、その写真に撮影されている原告であると特定し得たとするのは極めて不自然であり、西川の供述態度が前記の被告主張のとおりであったとしても、その信用性には疑問が残るものといわざるを得ない。

また、被告は、西川及び戸平和夫の供述によって、日本赤軍が大きな打撃を受けたことに関連して、日本赤軍ないし重信が、これを自己批判の対象として構成員に反省を求めており、このことは西川らが日本赤軍に関する真実をいかに多く供述したかを物語るものである旨主張するところ、日本赤軍ないし重信が、西川及び戸平和夫の自供を「ストックホルム事件での敗北」と称し、組織のあり方等に関する自己批判の対象としていることは、右(三)のとおりであるけれども、日本赤軍及び重信らが、具体的に西川及び戸平和夫の自供のうちのどの部分を問題としているのであるかを明らかにする証拠はなく、したがって、西川の供述調書中の原告を見かけたとする部分がこれに含まれると断定することはできないから、被告の右主張も失当である。

そうすると、西川の供述調書中の右の部分によって、原告がベイルートの日本赤軍のアジトに出入りしていたとの事実を認定することはできないというべきである。

(五) 松田の手紙文について

〈証拠〉によれば、司法警察員が、昭和四九年二月五日に、足立を中心として結成された日本赤軍の国内支援組織であるIRF・ICの事務所を捜索した際、用箋三枚に書かれた中途までの手紙文のコピー(乙第一五三号証)を発見押収したこと、右手紙文の原本は、若松及び足立が製作した「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」という映画の上映運動をフランスで行うべく昭和四八年一〇月一二日に出国した松田が、PFLP及び重信と連絡をとるため立ち寄ったベイルートから足立に宛てて出したもので、その内容中に、「(ベイルートで)カナガワ君とまず会い、その時彼女が私と会う必要はないと言っていたと聞かされ、愕然とした。彼女は、私と会うためには、私がパリでまず上映運動をやってみる、それで何か月か成果が上がってから、相互の経験を交流しようというのだそうである。……それも結構と諦めていたところに、ドクターと三、四日後に会い、ドクターもまた彼女の見解として、私がパリで自活するといっている、どこまでやれるか頑張らせたところで、それから会ってみようということを伝えた。」という部分があり、さらに、「守さんと若ちゃんがやって来、いろいろ経過があって、彼女と会う羽目になったとき、さいわい北沢氏を含めて四人がつるんでいたときだから、彼女もついでに私と会うこととなり、結局、テープどりが終わる二日間さらに待たされ、話した。」との部分及び「翌日は、テープに収録しつつ行われた北沢氏を含めた三者会談で、例によって連絡が悪く、私が遅参していた最初の三〇分間に行われた彼女の北沢氏に対する問題提起が………」という部分があることがそれぞれ認められる。他方、〈証拠〉によれば、若松及びシナリオライター佐々木守は、重信の著書の出版のため、昭和四八年一〇月二〇日にベイルートに渡航し、同年九月一〇日に出国した北沢正雄と同地で出会ったこと、若松及び佐々木守と北沢正雄とは、それぞれ同年一〇月二八日ころまでの間に重信と会見し、若松及び佐々木守はその結果を重信著「わが愛わが革命」という書物として出版し、また、北沢正雄は雑誌「流動」(昭和四九年二月号)に重信との会見記を掲載したこと、佐々木守は、右「わが愛わが革命」の後書きに重信との会見について「丸二日かかって、収録テープが一二時間分」と書いていること、他方、雑誌「流動」の右会見記には、北川正雄と重信との会見に途中から「M氏」なる人物が参加したものとされていることがそれぞれ認められるところ、右事実中には、前記松田の手紙文の内容と符合する点があって、松田の手紙文の内容には一応信用性を認めることができ、かつ、文中の「彼女」は重信を、「守さん」は佐々木守を、「若ちゃん」は若松を指すものと認められるので、右手紙文の内容から、松田は昭和四八年一〇月一二日ころから同月二八日ころまでの間、ベイルートで、「カナガワ君」及び「ドクター」を通じ重信よりの連絡を受けた後、佐々木守、若松及び北沢正雄と合流して重信と会見した事実を窺い得ないわけではない。

しかして、被告は、日本赤軍関係者の間では原告を「ドクター」と呼ぶことがあり、また、当時、レバノンに滞在していた日本人で「ドクター」と呼ばれ得る者は原告以外にあり得ず、したがって、右手紙文の「ドクター」は原告を指すものであり、原告は、スールに移住した後も、重信との交際を継続していたばかりか、日本赤軍最高幹部として所在を隠匿する必要のあった重信と同人に対する訪問者との連絡役を務めていたものである旨主張する。

しかしながら、原告は医師であるから、日本赤軍関係者であると否とを問わず、そのことを知る者から一般に「ドクター」と呼ばれることがあったであろうことは容易に推認し得るところではあるが、逆に、医者、博士の意味を有する一般名詞である「ドクター」が原告に対する呼称としてのみ用いられるということはできないところ、前記松田の手紙文中の「ドクター」なる語は、差出人である松田と名宛人である足立との間で特定の人物を指称するものとの了解の下にいわば固有名詞として用いられていることが明らかであるから、右手紙文中の「ドクター」が原告であると認定するためには、単に原告が医師として「ドクター」と呼ばれることがあったというのみでは足らず、少なくとも、松田と足立との間で「ドクター」を原告を指称する固有名詞的に用いていたとの事情が認められなければならないというべきである。

しかして、この点について、前記(三)のとおり、行者の供述調書中に、昭和四九年八月ころ、ベイルートの日本赤軍の拠点に足立らとともにドクターと呼ばれる日本人女性が出入りしていたとし、かつ、原告の写真を右ドクターの写真として特定した旨の部分があるが、行者の右供述が信用するに足りるものでないことも前記(三)のとおりである。次に証人高橋正一の供述中には、警察当局は、原告が日本赤軍関係者から「ドクター」と呼ばれているとの情報を入手しているとする部分があるが、同証人は右情報の情報源を明らかにしないので、これに信憑性を認めることはできないのみならず、右供述自体によっても、原告が単に医師として「ドクター」と呼ばれることがあったという以上に、「ドクター」の語が原告を指称するいわば固有名詞として用いられていたかどうかまでは明らかでないから、右供述によって、松田の手紙文中の「ドクター」が原告を意味すると認めることはできない。また、証人高橋正一の供述中には、同人が司法警察員として昭和四九年三月一六日に足立から事情聴取した際、右松田の手紙文の「ドクター」が原告を指すものかという同証人の質問に対して足立は「警察は知っているくせに。ご想像にまかせます」と答えて、暗に肯定したとする部分があるが、〈証拠〉によれば、同証人が右事情聴取の結果を記載した事情聴取報告書中には、同証人が右手紙文の「彼女」及び「カナガワ君」について問い質したのに対して足立が「ご想像にまかせます」と答えた旨の記載はあるのに、右供述のような「ドクター」についてのやり取りがされたことの記載はない上、同証人の供述中の足立の言葉自体によっても、足立が「ドクター」は原告を指すものと認めたとまではいえず、当時から日本赤軍と極めて緊密な関係にあった足立が、「ドクター」の正体を秘匿するため、警察当局の誤った理解をそのままにしておく意図で曖昧な返答をしたものと解する余地もあり、結局、証人高橋正一の右供述を信用することはできない。さらに、証人高橋正一は、当時、レバノンに在留していた日本人の医療関係者は原告と中野しかいない旨供述し、また、原告を除くと日本赤軍関係者で医師資格あるいは博士号の取得者はいないので、松田の手紙文の「ドクター」は原告であるとも供述するが、右供述中のレバノン在留中の医療関係者ないし医師資格あるいは博士号取得者に関する部分が信用し得るものであるとしても、松田の手紙文の「ドクター」が日本人であることを確定するに足りる証拠はない上、「ドクター」が本来は医者、博士の意味を有する一般名詞であるとしても、これを固有名詞的に通称として用いる場合にまで、その範囲を医者又は博士号取得者に限定し得るとする根拠も薄弱であるといわなければならない。

以上のとおり、右各証拠によっても、松田の手紙文中の「ドクター」が原告を指称するものと断定することはできないというべきであり、他にこれを認めるに足りる証拠もなく、加えて、後記(七)のとおり、松田の手紙文が押収された日の前日に押収された足立の作成に係るものと認められる換字表では、原告を指称するのに「ソアド」という現地名が使用され、「ドクター」の語は用いられていないことも認められるのであるから、本件拒否処分時に、被告において、松田から足立に宛てた右手紙文中の「ドクター」が原告を指称するものと認定するに足りる資料が存在していたということはできず、したがって、右手紙中の「ドクター」が原告を指称するものであることを前提として、原告が、スールに移住した後も、重信との交際を継続していたばかりか、重信と同人に対する訪問者との連絡役を務めていたものである旨の被告の主張は、その前提を欠くもので失当であるといわなければならない。

(六) 足立のノートについて

〈証拠〉によれば、司法警察員が昭和四九年二月四日に足立の着衣及び携帯品について捜索した際、表紙の上部に「M・ADACHI」と、中央部に「I・R・F」と、下部に「ATAH」と記載されたノートを発見押収したこと、右ノート中には、「日本人戦士奪還闘争」との表題の下に、

1  H・J闘争の国内評価醸成と陳情攻セ

A I・R・F、パレ解、パレ人支、パレ研等を通して、リビア大使館への陳情(東京5・30行動実委)

B リビア政府への陳情電文攻セ(東京5・30行実委)

C リビア政府(トリポリ)への直接陳情(抗ギ)代表派遣

(アラブ赤軍=ドクトル、東京から=アタ)

等の記載のあるページがあることが認められる(右ノートの存在については当事者間に争いがない。)。

しかして、被告は、右のH・J闘争とは日本赤軍による日航機ハイジャック事件を指すもので、右事件でリビア軍が日本赤軍コマンドを逮捕したことに関し、IRFその他の団体がリビア大使館に又は電文によりリビア政府に陳情をし、かつ、リビア政府に対する直接陳情のため、アラブ赤軍から「ドクトル」が、東京から「アタ」がトリポリに派遣されるとの計画について記載したものであり、右計画においてトリポリに派遣されることとされた者のうち、「アタ」は足立を、「ドクトル」は原告を意味するものであるとした上、この事実は、原告が、日本赤軍内部において、ハイジャック犯人の奪還闘争の一環としての対政府交渉を委ねられる程の地位にあったことを示すものである旨主張する。

しかしながら、被告の右主張のうち、右ノートの記載が、日航機ハイジャック事件に関し、IRFその他の団体がリビア大使館等に陳情をし、かつ、リビア政府に対する直接陳情のため、アラブ赤軍から「ドクトル」が、東京から「アタ」がトリポリに派遣されるとの計画について記載したものであるとする部分については、右ノートの押収の時期及びその記載内容に照らし、また、〈証拠〉によって認めることのできる一九七三年一一月付けパレスチナ人民支援センター機関誌「支援センターニュース」なる出版物に、日航機ハイジャック事件に関し「われわれはリビア政府が四人のハイジャッカーを解放戦士として取り扱うよう大使館を通して要請してきた」との右被告主張に沿う記事が掲載されている事実並びに〈証拠〉によって認めることのできる足立が日航機ハイジャック事件の直後である昭和四八年八月一三日にパリにおいて同事件に関する日本赤軍の声明を発表した事実に徴して、これを推認することができるけれども、「ドクトル」が原告を意味するものであるとする部分については、前記(五)のとおり、「ドクトル(ドクター)」なる語が固有名詞的に原告を指称するものとして用いられている事実を認定するに足りる資料は存在しないというべきであって、したがって、右の「ドクトル」が原告を意味することを前提として、原告が、日本赤軍内部において、ハイジャック犯人の奪還闘争の一環としての対政府交渉を委ねられる程の地位にあったとする被告の主張も、その前提を欠き、失当であるといわざるを得ない。

(七) 換字表の記載について

〈証拠〉によれば、司法警察員が前記(六)のとおり昭和四九年二月四日に足立の着衣及び携帯品について捜索した際、第一の換字表及び第二の換字表を、また、前記(五)のとおり同月五日にIRF・ICの事務所を捜索した際、第三の換字表をそれぞれ発見押収したこと(各換字表の存在については当事者間に争いがない。)、第一の換字表は三葉のメモからなり、各葉の両面を用いて「1 マリアン」に始まり「191 アドレス(上記別紙)」で終わる人名、地名その他の名詞を1から191までの数字に対応させた記載があり、その二番目に「2 ソアド」との記載があるほか、右「191 アドレス(上記別紙)」との記載のある三葉目の裏面の上部に、「同封の山本さんあての手紙を下記に転送して下さい。至急(住所は〈秘〉にひかえといて)」として、特定人の住所氏名の記載のある重信の筆跡のメモが貼付してあったこと、第二の換字表は二葉のメモからなり、各葉の表面を用いて「1 和光」から始まり「183ビラ」で終わる人名、地名その他の名詞を1から183までの数字に対応させた記載があり、その二番目に「2 信原」との記載があるほか、一葉目の裏面に0から9までの数字を平仮名に、また1から12までの数字を他の数字に対応させた記載もあること、第三の換字表は押収当時切り裂かれていたが、これを復元すると、「1 和光」から始まり、「253 開発」、「254 Mr・Hdr」に終わる人名、地名その他の名詞を1から254までの数字に対応させた記載があるほか、0から9での数字を平仮名に、また一月から一二月までを他の月に対応させる記載があること、各換字表に記載されている名詞は、マリアン(重信の現地名)、山本、ジハッド(山田義昭の現地名)、和光等の日本赤軍構成員の本名又は現地名、松田、若松、北沢、佐々木等日本赤軍と何らかの接触をもった者の名前、山口女史(山口淑子参議院議員のことと推測される。)、ナセル、アサド、サルトル、庄司、竹中労等日本赤軍にとって何らかの意義を有すると思われる者の名前、東京、成田、京都、札幌、ベイルート、ダマスカス、フランス、モスクワ、ロンドン、オランダ等の日本及び世界各地の地名、H・J(ハイジャック)、声明、攻撃、作戦、カンパ、オルグ、資金、旅券等日本赤軍の活動行為の内容又は活動時の携帯品等に関係するものなどに大別することができること、足立は司法警察員に対し、第一及び第二の換字表について「メモに記載の暗号についてはある人間から自分宛に来た手紙を読むのに必要なものである。この暗号は自分が決めたものでなく、向うから言って来たものである。ある人の名前は言えない。」と供述したこと、原告はレバノン在住当時「スアード」という現地名を使用していたことをそれぞれ認めることができる。

そして、右各事実に徴すると、各換字表は暗号文の解読に用いられるものであり、そのうち第二及び第三の換字表に原告の名前が記載されていることが認められるほか、右のように第二及び第三の換字表に原告の名前が記載されていること並びに原告の現地名である「スアード」という発音が「ソアド」という発音と類似していることに照らし、第一の換字表に記載のある「ソアド」も原告の現地名を表記したものと認めるのが相当である。

しかして、被告は、右の各換字表は足立と日本赤軍との間の暗号文による通信の解読に現実に使用されていたものである旨主張し、これを前提として、右各換字表の比較的上位に記載されている原告が日本赤軍と密接な関係を有していたことが推認できるものであると主張するところ、右主張のうち、各換字表が足立と日本赤軍との間の暗号文による通信の解読に現実に使用されていたとの点については、右のように、各換字表には日本赤軍又はその活動にとって何らかの関係又は意義を有する名詞が列挙されていること、第一の換字表に重信の筆跡になるメモが貼付されていたこと、第一及び第二の換字表についての足立の右供述の内容などのほか、前記(五)及び(六)のとおり、足立が各換字表の押収当時において、国内において日本赤軍の支援団体を結成し、パリで日航機ハイジャック事件に関する日本赤軍の声明を発表するなど日本赤軍と緊密な関係を有していたことなど、その主張事実を窺わせるかのような事実も存在する。しかしながら、〈証拠〉によれば、右各換字表とも足立の筆跡であること、第二及び第三の換字表では、日本赤軍の最高幹部である重信の現地名よりも和光晴生の名前が上位にあるが、和光晴生は、若松の製作する映画に傾倒し、出国して日本赤軍に参加する以前には若松の下で仕事をしており、若松とともに映画製作に携わっていた足立とも交際があったこと、第一の換字表を用いることによって解読することのできる暗号文が、足立の筆跡で、足立の所持していた前記(六)のノート中に記載されているが、このことは、右換字表が他から足立に宛てられた手紙を読むのに必要であるとの足立の供述と符合しないことがそれぞれ認められ、さらに、各換字表を用いることによって解読することのできる日本赤軍と足立との間の通信文が現実に存在する事実も窺われないことを考え併せると、前記の事実が存在するからといって、直ちに、各換字表が足立と日本赤軍との間の暗号文による通信の解読に使用されていたものであるとの被告主張事実を認定するには足らず、むしろ、各換字表は、足立個人がその心覚え等を記すのに用いていたもので、記載されている人名も同人が必要と認めた観点から選択されていたものと窺われるのである。

もっとも、足立自身も、前記のように各換字表の押収当時から日本赤軍と緊密な関係を有していたのみならず、〈証拠〉によれば、足立は、昭和四九年八月までには出国してベイルートの日本赤軍に合流し、その後日本赤軍幹部として、ダッカ空港事件に関し昭和五二年一〇月四日にニコシアで記者会見をし、日本赤軍との接触を求めるジャーナリストと会見するなど、日本赤軍のスポークスマン的な役割を果たしていることが認められるが、前記(二)のとおり、足立は、昭和四六年五月ころ若松とともに映画撮影のためベイルートを訪れた際に原告と会っているのであるから、各換字表が押収された昭和四九年二月当時、ベイルート渡航を控えて、レバノン在住の日本人医師である原告を意識していたとしても格別これを異とするに当たらないともいえないではなく、したがって、各換字表の比較的上位に原告の名前が記載されていたからといって、被告主張のごとく原告が日本赤軍と密接な関係を有していたことが直ちに推認できるものということはできない。

(八) 原告の発表した声明文について

〈証拠〉によれば、IRF・ICが、調査編集委員会なる組織と共同編集して、昭和五〇年六月三〇日に出版した、「隊伍を整えよ-日本赤軍宣言」と題する出版物に、アラブ赤軍(日本赤軍)及びPFLP国際局、PFLP・GC政治局等のPLO内急進派組織などの声明文と並んで、それぞれ被告主張の内容の「PFLP日本人医療隊」の声明文が三通、「日本PFLP医療委員会」の声明文が一通掲載されていること、右声明文から窺われる声明者の所在及びその時期が前記(一)の原告の移動状況と概ね合致すること、右声明文の内容に、テルアビブ・ロッド空港事件等の日本赤軍の活動を讃えるなどのほか、日本赤軍の主張と共通する部分があることをそれぞれ認めることができる。

しかして、被告は、右のように右各声明文の声明者の所在及びその時期が原告の移動状況と概ね合致することのほか、当時レバノンに居住しつつ医療に従事していた日本人女性は原告と中野のみであり、中野がベイルート近辺に止まっていたのに対し、原告がスールのPFLP直轄の診療所に赴く等、主としてレバノン南部の病院で稼働していたことを挙げて、右の四通の声明文はPFLPと密接な関係を有する日本人の医療関係者が作成したものであり、かかる者としては原告以外に考えられないから、いずれも原告の作成に係るものと推認することができるとし、これを前提として、原告とPFLPとの間のみならず、原告と日本赤軍又はIRF・ICとの間にも密接な関係がある旨主張する。

しかしながら、前記(一)の(2)のとおり、原告が赤三日月社の診療施設を離れてPFLP直轄の診療施設に移ったとの事実を認めるに足りる資料は存在しないのみならず、右「隊伍を整えよ-日本赤軍宣言」と題する出版物の外には「PFLP日本人医療隊」又は「日本PFLP医療委員会」なる組織の存在を窺わせるに足りる資料も見当たらないのであるから、右各組織の実在さえ疑わしく、また、仮に右各組織が実在するとすれば、組織の名称並びに右各声明文の主語に「我々」及び「私たち」という複数形が用いられていることに照らして、複数の構成員がいるはずであるところ、被告主張に従えば、その構成員は原告と中野ということにならざるを得ないが、〈証拠〉によれば、中野はベイルート周辺の医療機関に勤務したのみで、レバノン南部の医療機関で勤務してはいないことが認められるのであるから、右各声明文の内容と符合せず、仮に、原告や中野以外の構成員を想定するとすれば、右各声明文の作成者が原告以外に考えられないということはおろか、原告が右各組織の構成員であるということさえもできなくなり、といって、組織の名称や声明文の主語の表記が原告による僣称であることを確認するに足りるだけの証拠もないのであるから、いずれにしても、右各組織が実在し、右各声明文の内容が真実であるなどとして、その作成者が原告であると推論することは、極めて不合理であり、右各声明文を根拠として、原告が日本赤軍又はIRF・ICとの間に密接な関係を有すると認めることは到底できないものというべきである。

もっとも、原告がPFLPの医療機関に属していたことが認められないとはいえ、前記(一)の(2)のとおり、PFLPの診療所から応援を請われて診療を行ったことがあるほか、〈証拠〉によれば、その他にもPFLPによる医療活動に関与し、これに協力してきた事実を認めることができるが、原告のPFLPへの支援協力は医療活動の範囲に止まるものであり、これを超えて、PFLPを介し、前記1の(三)のとおり、PFLPと緊密な関係にあった日本赤軍の活動と関わり合ったことを認めるに足りる証拠は存在しない。

(九) 新聞報道によるPFLP幹部の発言等について

(1) 〈証拠〉によれば、昭和四七年六月二日付け東京新聞に、PFLPのバシム・スポークスマンが同月一日に共同通信記者と会見し、PFLPに協力している日本人として赤軍派幹部の重信と医師延原たか子(原告のことと推測される。)を挙げ、「二人とも実によい人で働いてもらって助かっている。」とした上、「延原さんはレバノン南部にある難民キャンプで働いており、重信さんは最近日本から医療機械などの救援物資が到着したので、それの使い方を教えるため現在同じ難民の病院で働いている」と述べた旨の記事が掲載され、さらに、同新聞の同一紙面に、レバノンの新聞デイリー・スターが、同日、テルアビブ空港を襲撃した日本人はPFLPに加わっている赤軍(ジャパニーズ・レッド・アーミー)グループの一部であり、同グループには女性を含む日本人医師からなる医療隊があり、赤軍は、医師、看護婦、器材からなる完全な野戦病院の提供を約束したが、これは「交流計画」の一部として取り決められたものである旨を報じたとの記事が掲載されたことが認められる。

しかして、被告は、右記事を根拠として、PFLPの幹部が原告を日本赤軍の一員であると理解し、また、原告と重信とが行動を共にしていた旨主張する。

しかしながら、右各記事のうち前者については、原告に関する限り、前記(一)の(2)のとおり、当時レバノン南部のラシャディーエキャンプ内の赤三日月社の診療所で稼働する傍らPFLPの診療所の応援にも出向いていたのであるから、誤りとまではいえないとしても、重信に関しては、他に同人がラシャディーエキャンプ内PFLPの診療所で稼働していたことを認めるに足りる資料も同人が医療機械の使用法に通じていることを認めるに足りる資料もともに見当たらない上、右記事によるバシム・スポークスマンの会見の日はテルアビブ・ロッド空港事件の翌々日であるところ、かかる時期に日本赤軍の最高幹部である重信が医療機械の使用法の講習をしていたなどといったことは通常考え難いところであり、したがって、右記事は、重信に関する限り、容易に誤りであることが判明する類のものであるというべきである。また、右各記事のうち後者については、その信用性がデイリー・スターというレバノンの新聞の信頼性に全面的に頼っているのに、この点を首肯させるに足りる証拠はない上、そこに日本赤軍がPFLPに医師、看護婦、器材からなる完全な野戦病院の提供を約束したとするなど、にわかには信じ難い内容が含まれており、同紙の信用性には疑いがさしはさまれてしかるべきであるといわなければならない。そうすると、右各記事を根拠として、PFLPの幹部が原告を日本赤軍の一員であると理解し、また、原告と重信とが行動を共にしていたと認定することは到底できないものというべきである。

(2) 〈証拠〉によると、昭和五七年一二月二一日付けサンケイ新聞及び同日付け朝日新聞に、日本赤軍に近いPFLP幹部が同月一九日にレバノンで時事通信記者と会見して最近の日本赤軍の動向を明らかにし、その中で、日本赤軍は現在一七、八人で、最高幹部の重信ら少なくとも四人はシリア国内にいること、このうち、重信はサミーラというシリア人名で自分の子供と一緒にいること、他の三人のうち、一人は女医、もう一人は歌が上手な女性、残りは男性で、ダマスカス市内のPFLP事務所近くに住み、外国からの資金援助が豊富なため不自由のない生活ぶりであることを伝えた旨の記事が掲載されたことを認めることができる。

しかして、被告は、右記事の「女医」が原告であるとして、PFLPの幹部が原告を日本赤軍の一員であると理解し、また、原告と重信とが行動を共にしていた旨主張する。

しかしながら、〈証拠〉によれば、PFLP政治局メンバーであるバッサム・アブ・シャリフが原告代理人に対し、PFLP幹部が日本の通信員に対しかかる内容の情報を与えたことがない旨の書面を提出していることが認められるところ、右記事が情報提供者を匿名としていることに鑑み、被告において、右記事を本件拒否処分の資料とするのであれば、その真偽を調査すべきであったと考えられるのみならず、この点は措くとしても、〈証拠〉によれば、原告は、イスラエルのレバノン侵略に際し、昭和五七年八月にベイルートから脱出してシリアに移住した後は、ダマスカス市内のヤルムークキャンプ内の一間の粗末なアパートに居住し、赤三日月社から支給されるわずかの報酬で暮らしていたところ、原告はシリアに移住した直後に、旅券の発給を求めるため、ダマスカス市内の在シリア日本大使館を訪れ、その後も、本件拒否処分に至るまで旅券の発給をめぐり同大使館員と度々折衝したほか、日本からシリアを訪れた国会議員や知識人、ボランティア活動家等の応援の際にも同大使館員と接触していることが認められるので、同大使館員は、右のような原告の生活状態についておおよそは知り得たものと考えられ、したがって、右記事の「女医」が原告であるとすれば、右記事は少なくとも原告の生活状態については誤った事実を報じていて、ひいて全体の信用性も疑わしいことが、被告においても明らかであったというべく、右記事を根拠として、PFLPの幹部が原告を日本赤軍の一員であると理解し、また、原告と重信とが行動を共にしていたと認定することは困難である。

(一〇) レバノン国防当局らの情報について

原告がレバノン在住当時「スアード」という現地名を使用していたことは、前記(七)のとおりであるところ、〈証拠〉によれば、レバノン国防軍が昭和五七年八月のPFLPのベイルート撤退後にベイルート市内のブルジュ・バラジュネキャンプ内を捜索した際、同年六月まで同キャンプ内で三人の日本赤軍の女性兵士が活動しており、そのうちの一人は「スアド」という名前であったことを把握したとの情報が、レバノン国防当局から在レバノン日本大使館を通じて被告にもたらされたとの事実を認めることができる。

しかして、被告は、右のレバノン国防当局からの情報に基づき、原告がレバノン国防当局からも日本赤軍関係者と目されていたと主張するが、右のレバノン国防当局からの情報の「スアド」が原告を指すものとしても、その内容は、前記(一)の原告のレバノンにおける移動状況と必ずしも符合しないし、情報の正確性を明らかにする資料の存在も窺われない上、そもそもレバノンがマロン派を始め多くの宗派に分かれるキリスト教徒とシーア派およびスンニ派に分かれるイスラム教徒との複合国家であり、昭和五一年から昭和五二年にかけての熾烈な内戦を経た後のレバノン国防軍(政府軍)は、政権を握るマロン派キリスト教徒、特にファランジスト(カタイエブ)党の民兵組織とその構成の上で截然と区別し得るものではなく、また、ファランジスト党の民兵組織がレバノン国内のPLOないしパレスチナ難民と厳しく敵対していたことは、公知の事実といえるので、PLOがベイルートを撤退した後のレバノン国防軍によるPLO関係の情報に客観性及び中立性が乏しいであろうことは容易に推認し得るところであり、ひいてその信用性にも疑いがもたれるところであるから、右のレバノン国防当局の情報に基づく被告の主張も失当であるというべきである。

(二) 原告及び日本赤軍コマンドの出入国時期の一致について

〈証拠〉によれば、原告が最初にベイルートに向けて出国したのが昭和四六年四月二一日であるところ、同年二月二六日にはテルアビブ・ロッド空港事件に参加した奥平剛士が、また、同月二八日には重信がそれぞれベイルートに向けて出国していること、原告が昭和四七年三月に一旦帰国して、再度ベイルートに向けて出国したのが同年五月一四日であるところ、同年二月二九日にはテルアビブ・ロッド空港事件に参加した岡本公三が、また、同年四月一三日には丸岡修がそれぞれベイルートに向けて出国していることが認められる。なお、本件拒否処分の相当後であり、本件提起後のことではあるが、〈証拠〉によれば、原告は昭和六二年一一月二〇日ころにシリアから帰国したところ、同月二一日には、日本赤軍構成員丸岡修が帰国していることが認められる。

しかして、被告は、右のように、原告の出入国の時期と日本赤軍コマンド、特に丸岡修の出入国の時期とが比較的近いことを根拠として、原告が日本国内において、コマンドの「一本釣り」又は外国送り出しに何らかの役割を担っていたことが推測される旨主張するけれども、その根拠が、単に出国時期の右の程度の近さというだけでは、証人高橋正一が自ら供述するごとく何の根拠もない推測に等しく、牽強付会の説というを免れない。

(三) 原告のシリアにおける居住地とPFLP及び日本赤軍の勢力範囲の一致について

原告がベイルート撤退後シリアのダマスカスに移住し、ヤルムークキャンプ診療所等で稼働していたことは、前記(一)のとおりである。

しかして、被告は、ダマスカス近郊には、PFLP・GCのキャンプがあって、日本赤軍構成員岡本公三を始めイスラエルの捕虜とされていたパレスチナゲリラが、解放後、同キャンプからベカー高原に移動したほか、PFLPの幹部筋が、重信とともに原告も日本赤軍の構成員としてダマスカス市内にいることを表明し、日本赤軍構成員和光晴生もダマスカスのキャンプにいたことが外国の新聞記者により確認されており、さらに、ダマスカスは、ベカー高原に至る交通の要所で、同高原にいるとされる日本赤軍の前線を訪れるジャーナリストはいずれもダマスカス経由で、シュトウーラ又はパールベックにおいて接触をとっていると主張し、右事実を根拠として、ダマスカスからベカー高原までがPFLP及び日本赤軍の勢力下にあり、原告と日本赤軍関係者との交流がダマスカスにおいても可能であった旨主張する。

しかしながら、右主張のうち、PFLP・GCのキャンプの所在及び右キャンプからの岡本公三らの移動に関しては、〈証拠〉によって、これを認めることができるが、PFLP・GCがPFLPから分派した組織ではあるものの、PFLPとは別組織であることは、公知の事実であるから、PFLP・GCのキャンプの所在がPFLPの勢力範囲と関係のないことは明らかである。また、被告主張のPFLP幹部筋の表明は、前記(九)の(2)の昭和五七年一二月二一日付けサンケイ新聞及び同日付け朝日新聞の記事によるものと考えられるところ、右各記事の内容に信頼がおけないことも前記(九)の(2)のとおりである。さらに、〈証拠〉によれば、昭和四九年一一月一〇日付け夕刊フジに、外国人記者がダマスカスで和光晴生と会見した旨の記事が掲載されたことが認められ、被告主張の和光晴生のダマスカス滞在の事実は、右記事によるものと認められるが、右記事では、同記者はシリアでの会見の翌日ベイルートでも和光晴生と会ったとしているほか、同人のシリア滞在を疑問視する日本の警察関係者の談話も掲載されていて、同記者がシリアで和光晴生と会見したとの事実の信用性には疑問が残るのみならず、仮に、同記事にある右会見の事実が真実であるとしても、その日時は同年一〇月三一日とされていて、これは原告がシリアに移住した時期よりも八年前のことであるから、原告のシリア移住後の同国における日本赤軍の勢力範囲とは、直接には関係をもたないものというべきである。被告はまた、ダマスカスがベカー高原に至る交通の要所で、同高原にいるとされる日本赤軍と接触をとろうとするジャーナリストはダマスカスを経由するとも主張するところ、〈証拠〉によれば、本件拒否処分後に、かかる経路で日本赤軍の重信らと接触したジャーナリストが存在することは認められるが、単に右事実のみをもって、ダマスカスからベカー高原までがPFLP及び日本赤軍の勢力下にあるものとは到底推認し得ないのみならず、シリアが中東における強国の一つであって、従前からパレスチナ問題に関しては強い発言力を有し、PLOないしパレスチナゲリラに対して強大な影響力を及ぼしていることは公知の事実であるから、シリア領内にあるPFLPその他のPLO各派が、事実上、シリアの支配力の下にあることは考え得ても、シリアの首都ダマスカスがPFLP及び日本赤軍の勢力下にあるなどとは到底考えられないところであり、右の被告の主張が失当であることは明らかである。

(一三) 原告及び日本赤軍と人民新聞社との関係について

〈証拠〉によれば、人民新聞社は、昭和四八年ころから本件拒否処分までの間に、その発行する「人民新聞」紙上に、日本赤軍又はその構成員等から同新聞社に寄せられた声明文、意見等を多数掲載し、そのうちの一九七七年一〇月一五日付け同新聞に掲載した「日高隊声明」と題する声明文については掲載前に他の報道機関にその寄稿の事実を公表したほか、一九七三年八月二五日付け同新聞にリビア政府に逮捕された日航機ハイジャック事件の犯人の日本への引渡しに反対するアッピールを、一九七四年八月五日付け同新聞にリビアで同事件の裁判を受けている丸岡修への支援を訴える呼掛けを、一九七八年六月一五日付け同新聞に日本赤軍作成のポスター等の販売を斡旋する旨の記事をそれぞれ掲載したこと、また、同新聞社は、昭和五二年一二月一〇日に日本赤軍の声明文等をまとめた「団結をめざして-日本赤軍の総括」と題する出版物を発刊したこと、さらに、同新聞社は、その東京支局を日本赤軍に対する支援活動を行っている「三多摩パレスチナと連帯する会」の事務所と同じ立川市の風林舎に置き、また、昭和五二年二月一一日及び昭和五七年一〇月二四日に右「三多摩パレスチナと連帯する会」その他の団体とパレスチナ問題に関する講演会等を共催したほか、昭和四九年二月五日にIRF・IC外の団体と共同で日本赤軍によるシンガポール事件を支持する旨の声明を発表したこと、一九七一年一〇月五日付け、一九八三年一二月一五日付け、一九八四年一月五日付け、同月一五日付け、同月二五日付け、同年四月二五日付け、同年五月五日付け及び同年六月五日付けの各人民新聞には、レバノン等におけるパレスチナ人の生活、原告の活動状況、イスラエルの軍事行動やこれに対するパレスチナ人の抵抗の模様、PLO内部の政治状況等を内容とする原告の現地報告が掲載されたことをそれぞれ認めることができる。

しかして、被告は、右事実を根拠として人民新聞社が日本赤軍と緊密な関係を有するものとし、原告の現地報告が同新聞社の発行する人民新聞に掲載されたことを取り上げて原告と日本赤軍との間に密接な関係があるかのように主張する。

しかしながら、〈証拠〉によれば、被告主張の各現地報告のうち、一九七一年一〇月五日付け人民新聞に掲載されたものについては、それが「サンデー毎日」誌宛てに送付されたものである旨の人民新聞社による断り書きが付されていることが認められ、右現地報告が人民新聞に掲載されることを原告が意図ないし予期していたか否かは明らかとはいえない。また、〈証拠〉によれば、人民新聞に掲載される記事、論説、投稿等が新左翼的立場からの政治運動の報道や同様の立場の政治的主張を中心としつつも、それに止まらず、労働運動や市民運動の状況の報道等にも及んでおり、日本赤軍の活動の報道ないしその主張の紹介を専らにしている訳ではなく、また、外部からの投稿についても必ずしも日本赤軍の思想や行動に共鳴するものばかりでなく、これを批判する立場の者からのものも取り上げていることが窺われるほか、同新聞に掲載された日本赤軍の声明文等に付されることのある人民新聞社自身による断り書きから、それらの声明文等は日本赤軍から同新聞社に一方的に送付されてきたものをそのまま掲載しているものであることも窺われ(以上の事実は、〈証拠〉によっても裏付けられる。)、前記認定に係る日本赤軍の声明文等の掲載その他日本赤軍と関連する人民新聞社の活動の事実を併せ考えても、同新聞社が単に新左翼的立場の新聞社であるという以上に日本赤軍との間に特別の関係を有するものとは認め難く、したがって、原告が人民新聞に現地報告を投稿したことがあるからといって、そのことによって原告と日本赤軍との間に密接な関係があると認定することは困難である。

3  本件拒否処分の適否について

右1の、日本赤軍の組織実態及びその破壊活動等からすれば、日本赤軍と密接な関係にあると認められる者については、被告主張の国際情勢等諸般の事情のもとにおいて、被告が旅券法一三条一項五号に該当するとの判断をすることは合理的な根拠を有するものと解される。しかしながら、右2によっては、原告が日本赤軍と密接な関係にあるものと断定することは困難であり、また、他に原告が日本赤軍と密接な関係にあることを認めるに足りる証拠はない。そうすると、被告において、原告が日本赤軍と密接な関係にあると認められることを前提とし、被告主張の国際情勢等諸般の事情を配慮の上、原告が同号に該当するとしてした本件拒否処分は、前提となる重要な事実を誤認したもので、その余の点につき判断するまでもなく、事実上の基礎を欠く違法なものというほかはない(なお、同号該当性の判断について、被告にある程度の裁量が認められることは、同号の文言からも明らかであるが、同号の規定が憲法二二条二項によって保障された海外渡航の自由を制約するものであることに鑑み被告の裁量権はそれほど広いものではなく、少なくとも、被告の判断の基礎となる重要な事実の存否につき裁判所の審査が及ぶことはいうまでもない。)。

第四  よって、本件拒否処分の取消しを求める原告の本訴請求は理由があるので、これを認容することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 鈴木康之 裁判官 石原直樹 裁判官 青野洋士)

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